まったくハチャメチャな舞台で、演劇センスのかけらもない。名作戯曲をみごとに殺してしまった。
やることなすことがマイナス効果しかないような舞台は、作り手のおもしろさの感覚が狂っていてしかも低級であるためとしかいいようがない。
もう30年以上も前になるが、札幌で北海道大学劇研による宮本研「美しきものの伝説」を観たことがある。学生が演出し演じたものだったが、すばらしく生き生きしていておもしろかった。
そのとき、卓抜な演劇センスを持った演出の力というものを感じた。装置などは大掛かりではなかったし俳優も達者というわけではなかったが、戯曲の魅力を際立たせるアイディアに満ちていた。この舞台とはまったく逆だった。
「法王庁の避妊法」は、オギノ式避妊法の創始者・荻野久作博士が排卵時期を発見するまでを描く戯曲だ。
もっとも関心がありながらなかなか正面から取り組むことの少ない性と出産を、現代にも残る社会的な問題までも含めて描いている。やや極端な人物を配したうまい構成で、重いテーマを軽いユーモアあふれるセリフで切り取ってきてテンポよく進める。よくできたウェル・メイド・プレイだ。
それを、この舞台の演出と演技はみごとにズタズタにする。
演出は不在だ。
この戯曲を読み取りきれていないし、全体をコントロールもしきれていない。俳優の勝手な動きは目に余るが、それに対して何もやられていない。俳優の吐くセリフはギャーギャーとうるさいだけで、会話にもなにもなっていないから、戯曲のおもしろいセリフが生きることはない。
戯曲を読んでいて50回は笑ったのに、この舞台では5回しか笑えなかったことからも、戯曲の魅力が引き出されていないのがわかる。
演技も見るに耐えない。
学生の演技は、下手なうえにひねくれた演技だ。即物的にセリフのことばをそのまま形にしようとする。そこに行為はなく、あるのは感情ばかりだ。それをあせってやるものだから、醜く顔をしかめ、上ずった大声で感情をぶつけることになる。そのようなやり方以外を考えきれず、それが最悪の演技であることにも気づかないというレベルだ。
久作の妻となるとめが初めて登場したとき、ゴリラ歩きのうえに、しゃべるたびに醜いしかめ面ばかりが目について、こんな女と結婚する男はバカじゃねぇかと思ってしまった。そんな演技だ。もっと魅力的にやらなければならないくらい誰も気がつかないのか。そこまで行けないなら、せめて普通に素直にやってくれ。
なぜか主役をつとめる指導者の演技は、ヌーボーとしていて喜怒哀楽も表現できない一本調子で、決して自分の殻を破らない。
それにしてもなぜ、卒業公演を学生だけでやらないんだろう。指導者の力を借りていながら、オリジナルもできず既存戯曲の上演もこんなレベルじゃどうしようもないだろう。
にもかかわらず、それなりの入場料なのに観客は多く、私の観た回は満席だった。