正直、「柿喰う客」の舞台が観たくて行った。ここでも、この劇団の持つ多彩な舞台表現の一面を見せてくれた。
〔課題戯曲「しらみとり夫人」(作:テネシー・ウィリアムズ)あらすじ〕
家賃支払いを迫る大家のワイダ夫人に、ブラジルに所有する農園から送金があるとうそぶくしらみとり夫人。
言い争う二人の元へ、同じアパートに住む作家志望の男が現れる。
●しらみとり夫人 上演団体:village80%(演出:渡部光泰) 上演時間約25分
グラッと大きく変わる状況の変化が表現されておらず、ダラダラとした舞台だ。全く印象の弱いムーア夫人など、人物造形もちぐはぐ。
ニューオーリンズではなくてサンクト・ペテルブルグかと思わせる舞台美術にも違和感があった。
メインの3人以外に、6人がゴキブリ役や情景描写を演る。
そのなかでもゴキブリは、両夫人のガチンコのやりとりを弱めていて逆効果だ。両夫人のガチンコは、徹底的に戯曲に書かれた言葉でやるべきだが、そこが弱い。
そのために状況の表現が生ぬるくなってしまった。状況の変化がキッチリ見えないのはそのためだ。
そんなふうだからだろうか、ラストは簡単には終われないとばかりに、よけいなことをする。それは戯曲の改変であって、演出の範囲を超えている。
戯曲を読んだときの衝撃は、この舞台にはない。まず戯曲の読み解きをキチンとやって、そこから膨らませていくべきだ。
●しらみとり夫人 上演団体:柿喰う客(演出:中屋敷法仁) 上演時間約35分
女性5人と男性1人の俳優で、女性はしらみとり夫人、ワイダ夫人のいずれもを演じる。
役を入れ替えて同じセリフを幾度も繰り返して、状況や人物の表現を拡げながら、イメージできるまでに踏み固めていく。
初めにラスト近くのセリフをもってきて、ブラジルの農園の虚構がビッチリと示されてる。
そこをまず示したうえで、しらみとり夫人の救いようのない虚構が暴かれ、強がりの底にある寂寥感が見えてくる。
役を入れ替えながら、視点をずらしたバラバラの小さな場面を繋げていくが、大きな変換点はていねいに押さえられていて、人物の関係が変わると舞台の雰囲気も一変する。
ここでは現代口語演劇の演技を封印していて、抽象的ともいえる演技はダイナミックで切れ味がいい。
演出は、言葉と心のギャップを抉り出すことで、人物の生の状況を露わにする。その手法はかなり強引だが、そこはパワーで押し切っている。
そんななかで、作家役を韓国人俳優に演じさせることによって、作家の虚構性をピリリとスパイスを効かせて表現した。
演出でどこまでが違った印象になるか、それが比べられるコンペティションはなかなかおもしろい。
この舞台は、きょうとあすの2ステージ。少し空席があった。