大音響、強烈な照明、絶叫、歌など、30年ほども前に全盛だったド派手な演劇そのもの。それもこの舞台は、ド派手な演劇としてかなり質のいいものだ。
覆面レスラー右近と元宝塚女優の娘に生まれた少女タエ。運命に翻弄されながら生き抜いて大人になった彼女が、生死の境で見た自分の体と、その体を形作る骨。その骨の一本一本は、彼女が人生で出会ってきた男たち。
オープニングからトップギアに入れっぱなしだが、馬力があってエンストはしない。 すべてのシーンで、ぶっ倒れるまでやりつくしてやろいうという気迫にあふれている。
まずはじめに生死の境に追い込まれたタエを描き、そこからタエの回想シーンとしてタエの生い立ちからのその生き様をたどるという構成だが、話がけっこう破天荒だから、押さえを効かせるためにもそのような構成は効果的だ。
タエを形作るのは、父・左近から息子・歩までの5人の男たち。プロレスや卓球などのスポ根に親子や男女の愛情をからませた荒唐無稽ともいえる展開のド派手な舞台ではあるが、密な人間関係にあふれたタエの生き様へのいとおしさが全編を貫いていて、ただド派手なだけではない。
ド派手な演劇が下火になって現代口語演劇に取って代わられたのは、世相が変わったこともあるが、ド派手な演劇が形骸化したからというのも大きい。表現したいものが希薄でも、ド派手にやれば何か表現したような気になれる。そこに逃げ込んだから形骸化した。そんな舞台に感興は乏しい。
この劇団は、表現したいものを最もよく伝える方法を模索した結果、自力で切り拓いて、かってはあったが今は廃れてしまったド派手な演劇の手法に行き着いた。ド派手な演劇の全盛期を知らない観客には、この舞台は新鮮に見えることだろう。
この舞台がド派手な演劇として成功しているのは、自ら切り拓いたやり方だからだ。展開がパターン化するなどして形骸化したつまらないド派手な演劇をかって散々観てきたが、この舞台はそういうものの対極にある。
だから、この舞台の展開は変幻自在だ。柔軟にこれでもかとばかりにアイディアを詰め込むから新鮮なのだ。俳優やスタッフの労苦は二の次で、ギリギリまでやろうとする。オリジナルの楽曲は出演者が生演奏する。いくつもの役を掛け持ちし、幾度となく衣装換えをする。
そんな手を抜かないサービス精神が作り出す濃密な舞台だが、胃にもたれないようにラフなシーンも入れて緩急をつける。しかしなんせ、ハイテンションの超ボリュームで、ラスト近くになるとやや食傷気味になってくるのはやむを得ない。
この舞台は福岡では22日から24日まで4ステージ。かなり空席があった。