笹井宏之の短歌を劇中に多用しながらも、つまらないひきこもりの話に堕していて、笹井宏之の芸術やその生き様にはかすりもしない脚本では、演出や演技ではどうにも対応のしようがないという舞台だった。
30歳にもなるひきこもりの向井カゲフミが、“笹音”という短歌のサイトに癒されて、ひきこもりから抜け出す。
天井から下がった白い紗の手前に白い六角形の台。紗には4つの出入り口とかなりの切込みが入っている。紗の後ろには白いイス。
なかなか洗練された舞台装置に膨らんだ期待は、開演10分で裏切られる。話がどうでもいいことばかりにで、肝心のところが深まりもせずに、いっこうに進展しないのだ。たいくつさに耐え続けるしかなかった。
そして終ってみれば、題名にもなっている笹井宏之とその短歌は、話の雰囲気を盛り上げるために使われただけ。こう貶められたのでは、笹井宏之は浮かばれまい。
何でひきこもりの話と笹井宏之の短歌を結びつけるのか。貧困な発想の話なら、笹井宏之の短歌を使わずに、貧相な発想のオリジナルの短歌を使えばいいのだ。
笹井宏之の短歌を使うのならば、深いところで共鳴するまできちんとアプローチして、そこからドラマを引き出すべきだろう。それができないならば、笹井宏之の短歌を使ってはいけないのだ。こんな中途半端な形での笹井宏之の短歌の扱いは、決して許されるものではない。
そんなレベルの脚本では演出も演技もやりようがなくて当然で、何とかしようとせずに書き直しを要求するのがスジだろう。
笹井宏之についての思いはたくさんあるが、ここじゃとても書く気にはならない。
この舞台はなぜか福岡演劇フェスティバルの推薦枠の作品で、きのうときょうで3ステージ。少し空席があった。