アントンクルーの「テネシー・ウィリアムズな夜」の第一夜の「バーサよりよろしく」、「27台分の棉花」は、演出の工夫もあって楽しめたがまだまだ課題も多い。
今回は2夜にわたって4本の1幕戯曲の上演だ。いちばんの特徴は各戯曲に演出補を置いたこと。第一夜を見る限り、演出補によるアイディアが作品にメリハリをつけ、かろうじて鑑賞に堪えるレベルに到達した、というところだ。まだまだ工夫の余地がある。
「バーサよりよろしく」は、病んで、当てのない妄想にしがみかざるを得ないところまで追い詰められた売春婦バーサの話。「バーサよりよろしく」と昔の恋人チャーリーに出すあてもない手紙を書くというバーサに、「欲望という名の電車」のブランチの原型を見る。上演時間は約30分。
バーサは、進退きわまり絶望に打ちひしがれながらもすがるべき希望を探してまだもがく。そのことで、正気でいることに耐えられないほどの絶望の深さがわかる。そのあたりの思いと錯乱一歩手前の精神状態の表現は、演出補・山田恵理香らしくひとつひとつのセリフに肉薄してメリハリを持たせて膨らませていて引き込まれる。バーサの酒瀬川真世は若干硬く不自然なところもあるが、なんとか演出についていっている。
ただ、全体にはさっぱりしすぎていてテネシー・ウィリアムズらしさが薄い。絶望を含んだ奈落のけだるさが感じられない。バーサが溺れかかっているようには見えないのだ。象徴的な装置に清楚な衣裳でそれを表現するのは無理がある。そしてバーサは、絞り出すようなしゃべりではなく、どっちかというと元気あふれるしゃべりだ。そこには役を表現するのではなくて役者を見せるという間違った意図が働いているように思う。
「27台分の棉花」は、ライバルの工場に放火してそこの仕事を請け負うという話に、放火した工場主の妻と放火された工場主との関係がからむ。原作を大きく換骨奪胎しているところが面白いが、それがテネシー・ウィリアムズらしさを消してしまった。上演時間は約40分。
種田順平は大江壮吉の工場に放火して、大江の工場の27台分の棉花を仕上げる仕事が転がり込む。種田はそれを仕上げている間、大江の相手を妻・すみ子にさせるが、実は大江とすみ子は昔なじみだった。
構成は面白い。放火の口止めですみ子に対する種田の優勢を描く第一場、大江とすみ子が昔なじみだったとわかりよりが戻ってしまう第二場、横田とすみ子の形勢逆転し、果てはすみ子が夫・横田を警察に売る第三場。ぶっ飛んだ展開だ。それを三味線などでうまく進めていてまあ楽しめる。
だがそのような改変で原作戯曲とはまったく違った作品になり、この戯曲そのものが持つエネルギーは残念ながら失われてしまった。この戯曲のエネルギーは大江がすみ子に乱暴するシーンに集約されているが、それが昔なじみの焼けぼっくいに火ではうんざりではある。この脚本では人間の関係が分かっていくのだが、原作のように人間が変わっていくのとでは舞台の醍醐味は全然違う。説明調のセリフの多さも気になる。
キャストはアンバランス。種田も大江もまだ大味で、すみ子は色気不足だ。
たかが名作戯曲の翻訳・翻案上演なのに、この集団の前説の饒舌さ、その手前味噌ぶりにはうんざりだ。それが自己弁護のためか観客教育のためかは知らないが、表現者として(!)観客の意見には答えないというのがこの集団の方針のようだから、ならば舞台以外では語らないというのが筋ではないのか。
私はオリジナルを評価する。この集団、翻訳劇の成果を踏まえて創作劇にも取り組む予定というが、ほとんどの劇団はすでに創作劇に取り組んでいる。後衛でしかないことを認識したがいい。
この2戯曲の組み合わせはあと27日、29日に上演される。そして31日には4戯曲のなかから観客のリクエストが多かったものが再上演される。
きょうの初日は若干空席があった。