蜷川幸雄の人気が、いっこうに下火にならないどころか、なぜか異常なほどに高いところで安定している。ほとんどの演出に対し、みんなしきりに手放しで感心する。昨年も「ペリクリーズ」はじめ演出作品のほとんどが高い評価を受けた。
でも、蜷川演出を観ていると、どの作品も同じような演出で、構成力はあってもきめ細かさには欠け、ほんとうの意味で創造性があるのか疑問だ。そんな蜷川に席捲されてしまうような、日本の演劇界の幅の狭さも問題だ。
蜷川は、演劇の職人だ。芸術性と勘違いさせてしまうような、そんな職人技をもつ職人だ。そう考えたほうが、蜷川を理解しやすい。
かって商業演劇にひっぱり出される前の蜷川は、現実を突き破るような激しい芸術性を持っていた。社会現象にまでなったそのような作品は、芸術性への認識を拡げさせるほどの勢いがあった。
いまの蜷川は、ランタン・フェスティバルのランタンである。荒っぽく形を整えられ、内側からライトが入ると、ランタンは美しく輝きだす。それは、もともとのモデルである動物などよりもはるかに迫力がある。しかし、それは決してリアルではない。人を驚かすことはあっても、生々しく人に迫ることはない。
職人というにも、それなりの理由がある。いままでに創案した演出技法を適宜組み合わせて、一本の作品に仕上げている。
蜷川は演出の構成のために、原作戯曲を大きく揺さぶって見る。その揺さぶり方は、商業演劇初期のころまでは斬新だったが、いまはそれも掻き消えて常套的になってしまった。その上蜷川は、揺さぶる相手の骨格に寄りかかるばかりで、骨格を作ることはない。このごろオリジナル戯曲の演出がない(今年は1本予定されているが)ばかりか、劇作家さえもある程度固定されてしまっていることを、ちゃんとマイナス評価したがいい。
舞台構成はあくまでもテクニカルで、ダイナミックではあるが、形優先で、思いはオロオロついていく。思いが溢れて形を突き破る蜷川演出には、このところトンとお目にかからない。
でもよく考えてみれば、そうだからこそ、「芸術的商業演劇」の世界で圧倒的な観客動員ができるのだ。北九州芸術劇場の大ホールは満席で、観客の年齢層は幅広く、高年齢者が多いことがそれを物語っている。
演出家論が長くなってしまった。述べたような不満はあるが、さすが職人、観劇の楽しみはそれなりに準備する。そこを楽しむしかないが、それはまあそれなりというところだ。
残忍に人を騙して陥れ、王位にまでのぼりつめるリチャード三世の物語だ。
この舞台は、その残忍性よりも、孤独がゆえに策を弄さねばならなかったリチャード三世(市村正親)の人間性を強調しているのが特徴である。しかし私にはそのような原作戯曲の揺さぶりさえも常套的・職人的に見えてしまう。そこを容認すれば、市村の演技を楽しむことはできる。だがそのことで、全体がいかにも作られたものとして、ゲームのように感じられてしまう。しかしそれは違うのではないか。
物語が動く場面とそうでない場面との落差が大きいのが気になった。それは、勢い優先で、繊細な表現は弱いことが原因している。次兄クラレンス公(高橋長英)は、単なるゲームの敗者としか描かれない。戴冠式での観客を市民に見立てて拍手を引き出すような演出に違和感があったのは、ゲームに加担することに抵抗があったからだ。ゲームは、重要なものを多く切り捨てている。それでも切り捨てられなかったところ、例えばリチャードとエリザベス(夏木マリ)のやりとり、その割り切れなさがわだかまりとなって、却って印象に残るのだ。
演出について、物語が動く場面での空間処理のダイナミックさは楽しめる。
舞台全体を覆いつくす三階建ての格子。宮廷のシーンではシャンデリアが降りてきて、格子の下半分が反射板になる。
オープニングとラスト、大きな馬をはじめとする動物の死体が降ってくる。どっかで見たような演出ではあるが、照明の鮮烈さとあいまって、いかにも蜷川で、感覚的には楽しめる。しかし、そんなところばかりをのうのうと楽しんでいるわけにはいかないのは、述べてきたとおりだ。
この舞台、北九州では4ステージ。満席だった。
しつこく。
蜷川はかって、劇団民藝の「七月六日(レーニン)」(宇野重吉の演出で、滝沢修がレーニンを演じ、演劇評論家が絶賛していた)という芝居を観て、吐き気をもよおして、途中で外へ飛び出したという。
形骸化した蜷川演出を観て、吐き気をもよおしている若い演劇人が、どこかにいることをひそかに願う。