おもしろい既存戯曲をきちんと上演することをめざしているこの集団の、オリジナルを髣髴とさせる舞台を観ていると、福岡の劇作と演出のレベルの低さを改めて思い知らされる。
選ばれた戯曲のみごとな構成とみずみずしいセリフで、その世界がくっきりと姿を現す。それを見ていると、福岡の劇作家がいかに鍛錬不足かがモロに見えてしまう。
新しい戯曲に井上典久は真正面から取り組み、きちんと演出している。戯曲の選択がいいこともあるが、戯曲へのアプローチは、逃げもせずべったりともならず、戯曲に肉薄しその魅力を引っぱりだす演出力は注目に値する。そういうことをちゃんとやれる演出家が福岡には稀有なことが、福岡の演出家不在を象徴している。
痴呆になった新聞記者だった老人。
妻は亡くなっていて、娘とその夫やホームヘルパーなどが、痴呆にふりまわされながらそれを食い止めようとする。
冒頭の両眼視機能検査で、家と三人が重なって三人が家に入ればOKという会話が象徴的で、そのあとも伏線がいっぱい。痴呆老人の妄想(過去)と現実(現在)が入れ混じり、だからこそ両方ともが際立つという、魅力的な構成の戯曲だ。
演出はその魅力をていねいに引き出す。
はじめは幻想と現実の区別がつきにくかったり、人物の名前と年齢が繋がらなかったりとちょっと戸惑うが、じわじわと人間関係が見えはじめて、それぞれの思いまでがくっきりとしてくる。
説明調を排してテンポいい戯曲にさらけ出された思いを、テンポいいままにていねいに引っぱりだしていく。痴呆になったことでこだわってきた生き様が鮮烈に顕われ、それに付随した確執も顕われる。それがたとえドロドロしたものではなくても、当事者にとっては大問題であり、それらが静かにぶつかりあう。
それをあくまでも自然に演じる。大声でわめいたり大仰な動作はない。だからこそ緊張が持続する。
そのような舞台の意図は伝わってくるし、リアルな演技への努力のあとは見えるのはいいが、正面切ったいかにもという演技がもぐり込むのが気になる。それが甘さになっていて、もったいない。
おおざっぱな舞台がほとんどの福岡の演劇は、まだ1990年代に到達していない。井上典久は、1990年代の演劇を意識した舞台づくりをする、福岡でも数少ない演劇人のひとりだ。オリジナル戯曲を井上演出で観たいが、それが書ける劇作家はいつ登場してくるのだろう。
この舞台はきょうとあすで4ステージ。かなり空席があった。