*** 推 敲 中 ***
劇団GIGAと韓国の劇団トケビとの合同公演で、ふたつの劇団の表現の方向性の違いがおもしろかった。
ただその表現のレベルには歴然とした差があり、GIGAの演技が素人から一歩も抜け出ていないということを際立たせた。
原作は夏目漱石の「夢十夜」で、10の夢のうちトケビ単独でのものが3つ。あとは、GIGA主体で、そのいくつかにトケビの俳優が若干参加するといった形で、オープニングとフィナーレは全員でのダンスパフォーマンス。
10の夢の分担するということで、離れたところにある劇団がひとつの作品を作り上げられており、ひとつの作品をいっしょに作る合同公演としては成功している。GIGAの単独公演よりも数倍はおもしろくなったのではないだろうか。
トケビは、韓国の伝統芸能を取り入れたステージ作りをしていることもあって、身体訓練も行き届いており、演出についてもスタイルを持っていて質が高い。そのことは、トケビによる第一夜の舞台と、GIGAによる第六夜の舞台とを比べてみるとよくわかる。
第一夜(トケビ)は、百年後に会いにくると言って死んだ恋人の話。百年後の再会のシーンをどのようにするのか興味をもって見ていた。原作で、目の前に現れた百合に口づけして「『百年はもう来ていたんだな』とこの時始めて気がついた。」と書かれているところを、再会の喜びをじっくりと求め合い睦みあう様で表現するし、激しい愛の交歓を男性が女性を高々と肩の上にかかげることで表現する。直截な表現だが、互いの愛情の強さが伝わってくる。
第六夜(GIGA)は、第一夜の次に演じられる。勇壮な仁王像を彫った運慶はまだ生きているという。さらに運慶が「あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」という。そこで自分も樫の木を彫ったが、仁王は埋まってはいなかった―という話を、昔話か何かのようにそのままの動きで表現する。さらにそれをセリフでなぞる。動きの表現はかなり粗雑なうえに、それを鍛え上げられもしないセリフで説明されたんじゃ、くどすぎてうんざりしてしまう。何か基本的なところでまちがっている。
以上のような極端とも見える演出や演技のレベル差のほかに、GIGAの俳優のダンスが美しくないしちゃんと決まらないことから、その身体訓練の不足をさらけ出していた。
トケビの演技については、韓国の伝統芸能で鍛えられた激しい動きと、韓流らしい情緒的な引っ張りのコントラストはみごとで、演出はそのようなスキルを生かし使い切ろうとしていた。
アフタートークで質問してみたところ、年間6本の作品を作り(ステージ数はよくわからなかった)、2人が演劇で食べていけるとのことだった。
この舞台は「福岡世界演劇祭プロジェクト第一弾」と銘打たれていて、きょうとあすで4ステージ。満席だった。