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《2010.10月−5》

オーソドックス過ぎる演出の功罪
【欲望という名の電車 (エイコーン)】

作:テネシー・ウィリアムズ 演出:加来英治
15日(金) 18:35〜21:15 ももちパレス 3430円


 戯曲をそのままていねいに上演しようという演出意図を好意的には見たが、それが魅力的に実現されたかというとそうでもない、という舞台だ。
 演出意図が古臭いのと、俳優の干からびたような演技で、舞台はなかなか、瑞々しく豊かということにはならない。スター芝居の弊害もある。

 ニューオーリンズに住むステラのところに来た姉・ブランチ。
 掃き溜めに鶴という風情で、ステラの夫・スタンレーと合うはずもないが、そのブランチ、着いたばかりなのにお酒を探したりしてどっかおかしい。

 ブランチは、没落する南部地主一家の苦しみを一身に背負い、さらに、結婚の失敗で大きな傷を負っている。その結果、歯止めの効かない男出入り、酒びたりの生活に落ち込む。
 ニューオーリンズに逃れて来ても、道が開けるはずもなく、唯一の希望だった男も事実を知って去っていき、ついには狂気に陥る。

 ニューオリンズにおけるブランチは、膨らませたちょうちんのように中身はなく虚栄と妄想だけ。自立できるはずもなく、王子様などいやしない。
 ブランチにとってはまた、ニューオリンズそのものが、空虚な自分の影を映す巨大なちょうちんみたいなもの。その実生活とかけ離れた過去が、ニューオリンズに映し出されていく。
 そのようなブランチの虚しさ・はかなさをていねいに描いた戯曲を、キッチリとオーソドックスに描こうという演出の姿勢で、何ともいえないもどかしさは伝わってくる。

 ブランチを襲う、社会構造の変動を一身に引き受けた、どこまで行っても喪失感という悲劇が痛々しい。
 それは簡単に克服できるようなものでも、淘汰できるようなものでもない。新しい境遇に適応できないブランチは、引き裂かれて悲劇に向かわざるを得ない。
 その狂気が、故郷のミニチュア版のようなステラの家で爆発する。

 その狂気に至るまでを、栗原小巻はきちんとトレースする。ほとんど空虚になったような心と身体のフラフラな感じは伝わってくる。
 だがだが、そのような表現は栗原小巻だけ。他の俳優たちは徹底的に受身で、何とも魅力がない。スター芝居の弊害で、萎縮してしまっている。
 スタンレー(千葉茂樹)は何とも単調で、あふれるようなエネルギーは感じられない。ステラ(渡辺梓)も線が細くて生活力いっぱいには見えない。
 ミッチ(池田勝)は役者の高年齢が丸見えで、やはり歳以上に老けて見える栗原小巻とのラブシーンが全然うらやましくない。

 栗原小巻だけを目立たせようとすれば、オーソドックスな演出に栗原小巻の見せ場を加えるというやり方しかないのかもしれない。
 しかし、それの限界も感じた。もう少し戯曲を揺さぶったり逆らったりしてもよかった。

 この舞台は、福岡市民劇場10月例会で、11日から19日まで9ステージ。ほぼ満席だった。


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