雑駁極まりない戯曲だから、演技のしようもないたくさんの出演者たちが、舞台の上で烏合の衆と化していた。
運送会社で働く関口美登里が「チョコレート状全身溶解症」という奇病にかかってしまう―という再現ドラマの美登里役を演じる真野ゆかり。ゆかりは再現ドラマのモデルとなった実在の美登里と会い、美登里がゆかりの世界に入りこんできて、ふたりの世界が入れ替わってしまう。
ていねいに作られて生き生きしているのは冒頭の運送会社のシーンだけだが、そのけっこう長い再現ドラマのシーンは関口美登里の遅刻を描くだけで後には繋がらない。そんな場面がほかにもあって舞台全体をいびつなわかりにくいものにしてしまっていた。
撮影クルーのパーティのシーンなどでくだらない遊びが多すぎて、舞台に登場している俳優たちは手持ち無沙汰で勝手な動きをして、もともと弱いシーンの意図が完全にぼやけてしまった。そんなシーンに、十分に描けていない大事なシーンが埋もれてしまう。
そんなふうで、観ているのが恥ずかしくなるような舞台だったが、主宰は恥ずかしげもなく、この戯曲が「誰にでも書ける、貴方にしか書けない戯曲講座」で調子に乗って書いたものであると書いている。とにかく、思いついたものを効果も何も考えずに書きなぐりすぎていて、リライトしたらしい形跡も見えない。
この舞台のキモは、再現ドラマの現実化、だろう。だったらそこに注力して、くだらない遊びをやめてそこを徹底的に掘り下げて、ゆかりと美登里の思いを表現していけばいいのだ。
そのためによけいなものを絞り込んで、大事なことに係るものをきちんと重みづけをする。それを矛盾のないように繋ぎこんで、観客がイライラしないようにうまく提示していく。そこまでやってこそまともな戯曲だろう。
ことし10周年の劇団ぎゃ。は、2004年の「サンジョルディの日」から観ているが、2年ぶりの新作だというこの舞台は、「サンジョルディの日」よりもはるかに落ちる。いつまでたってもも素人気分が抜けず、演劇に対しても観客に対しても対峙のしかたが甘すぎる。
この舞台は、きょうとあすで3ステージ。かなり空席があった。