福岡演劇の今トップへ 月インデックスへ 前ページへ 次ページへ


《2001.6月−8》

歌舞伎の女形を際立たせる
【アジア演劇の女形(舞台へおいでよ!スペシャル)】

26日(火)19:00〜20:45 NTT夢天神ホール 入場料\2,000


 博多座開場を盛り上げるために企画され開催されてきた「舞台へおいでよ!」というシリーズもののセミナーはたいへん面白く、福岡にいる頃はよく参加した。その特別版としての演出セミナーや劇作セミナーにも参加させてもらい大変有意義であった。
 今回はスペシャルと銘打たれた舞台公演つきで、このような催しが福岡で観られるのは大変ありがたいことだ。

 インド、インドネシア、中国の女形がそれぞれ2つの作品を演じる。解説は武蔵野女子大教授のリチャード・エマート氏で、勘所を押さえた内容を流暢な日本語で説明してくれる。

 インドからは、セライケラのチョウという舞踊で、演者は1957年生まれのゴパール・ドゥベイ。女性の顔の仮面をつけ、足首に鈴の輪をつけそれで調子を取りながら踊る。体の動きが女性らしさを強調していてやわらかくなまめかしい。
 仮面をつけるのはもともとむつけき男の顔を隠すのが目的だろうが、踊り手としては仮面に意識を集中した踊り方ではないかと思う。体の表情をつくりだす技巧は高い。その結果、仮面と体が一体感をなすところまで行っており、陶酔させられる。
 カーテンコールで仮面を外したゴパール・ドゥベイのごついインド人の顔にびっくりした。

 インドネシアからのディディ・ニニ・トウォは1954年生まれ、大柄で顔も大きくとても女には見えない女形で、日本でいえば中村芝翫タイプだ。
 女性に見せるための地を完全に殺すようなメークアップはしていない。だから男性の部分もチラチラする。踊りは手の巧妙な動きがポイントになっている、それで女性らしさが強調されるから不思議だ。ただ、仮面がない分違和感はあるが、演じる方も無理に女性になりきろうという気はないようだ。
 インドもインドネシアも、女形が踊ることの意義はちょっとした倒錯の魅力で刺激を与えるためであって、女形である必然はなさそうに見えた。

 中国の演目はやや事情が異なる。
 女優だけで演じていた越劇に、あとから入った男優が男性を演じる。正確には、男性を演じる女優のやり方で男性を演じる男優、という倒錯した表現になる。解説で、宝塚に男優が入って男性を演じているようなものと説明されたが、これならわかる。だから男性の表現にも独特の女性らしさが残る。
 そのような越劇の伝統に則って演じた1962年生まれの俳優趙志剛は、せりふ、歌の魅力が大きく表現力も高く、ひとりで演じながら大きなドラマを感じさせたすばらしい舞台だった。

 この公演を観た直後に、渡辺保の初期の著作である「歌舞伎に女優を」と「女形の運命」を読んだ。

「歌舞伎に女優を」は、「社会が変わったのであるから歌舞伎に女優があってしかるべし」という論旨だ。芳沢あやめや岩井半四郎の「女形の生活そのものが表現であり、生活は舞台の生活と密着していた。すなわち『肉体』を持っていた」のが、九代目団十郎、六代目菊五郎のように専門の女形でない役者が「技術」で女形を演じて成功した。その延長に女優を見ている。
 しかしながら、明治に行われた歌舞伎に女優をという試みが、男に扮する技術をもった女優だけが例外的に成功したというのは、女形の演出の「様式」が本来男性のためにできているものであることを証明している、と矛盾した事実が述べられる。
 そこを乗り越えるためには「内容を理解する」ことだと著者は言い、女優を使うことで「様式」ではなくて「行動」という点から古典戯曲の真実に近づくべきであると主張している。

 その9年後に書かれた「女形の運命」では、中村歌右衛門を論じて、「初めて舞台で笑うことができた女形」と言う。
 その「笑い」を執拗に分析して、そこには、「型」を乗り越えようとし、人物の「瞬間の肉体」のあり方を現実感を持って表現する感受性を歌右衛門が持っていたからだと言う。その写実や心理を追求する面と、それを超える舞踊的な美しさの集積がひとつの幻想を作り上げたが、それは歌右衛門にとっての袋小路でしかないとされる。
 やや批判的であるとはいえ、ここでは著者は歌右衛門に入れ揚げていて女優のことなど吹っ飛んでしまっている。女形の特性がいやというほど論じられ、歌舞伎と分かちがたく結びついているものだということが強調されることになる。

 しつこく2冊の書物の論旨を述べたが、そのようにいくらでも論じられる歌舞伎の女形に比べれば、今回の公演の女形は、ソロでの出演で、演じたものが小品であることもあろうが、単に女装しているだけではないかというほど淡白であった。
 女性らしくというよりも、男性が女性を演じる違和感を楽しむレベルであり、越劇以外はせりふもなくダンスだけである。芸能としての多様さはよくわかったが、むしろ歌舞伎の特殊性を際立たせてくれた公演であったように思う。


福岡演劇の今トップへ 月インデックスへ 前ページへ 次ページへ