アングラへの基本的な誤解が、この作品を傲慢でめちゃくちゃなものとしている。
作・演出の清末浩平は言う、「演出は僕が独学で手に入れたアングラの手法です」と。だが、アングラ本来のものはこの作品にはかけらもなく、アングラの手法と勘違いしているとしか思えない奇妙な表現方法ばかりが目立つ。
「椿姫」と「星の王子さま」を下敷きに、金の亡者・ドクトル腐乱の囲われ者・椿と、椿に惚れる大學との三角関係とその清算を描いている作品である。
その中で、アングラらしきものはほとんどない。作者がアングラの手法と勘違いしていると思われる、通常の芝居と違う表現は次のようなところだ。
@ドクトル腐乱の、ピエロ風のメークで、極端に大げさな動作・しゃべり
A黒崎先生の、白塗りのメークと、ドラキュラ調の動作・しゃべり
Bインターン・英霊たちの暗いメークと声を合わせたしゃべりと暗い踊り
ぐらいかなと思う。見てわかるとおり、悪役の側を強調するために使われる。
照明や音楽も若干の試行はされているが、言うほどのこともないレベルだ。
このような表現方法は、本来のアングラとはほとんど関係がない。
アングラのというのは、形式主義に堕していた旧来の新劇のスタイルを疑ったところから出発している。言いたいことを形にとらわれず表現するのがアングラの基本的な立場であり、そういう点では今の演劇の主流はアングラの末裔といえる。
とらわれず表現することから当然多様なスタイルが生まれた。その多様さの一部である寺山修司や唐十郎の強烈なデフォルメの、それも魂のない模倣がこの作品である。この傾向の劇団では福岡では劇衆南組が代表的だが、それらのひとつも観たのか。
間違ってはいけないのは、かれらは思いを表現する手法を積み上げてスタイルを作ったのだ。スタイルがはじめからはあったのではない。
その思いの部分を無視し、借り物のテーマに借り物のスタイルでは、まともな作品が生まれようもない。そのレベルの認識もないから、傲慢だといわざるを得ない。
大学演劇がこんなレベルでいいのか。