3本の映画のイメージに寄りかかった作りであることを作者自ら暴露したのみならず、さらに直接ネタの映像を映写する。この、既成のイメージのみならず、既成の映像そのものに寄りかかっているルール違反ともいうべき作りで、作品の後味はよくない。
開幕、暗い映像と音楽からスタートするが、ここでは何が写っているのかはっきりしない。しかし、日常から虚構の世界に連れて行ってくれるような期待は高まる。
が、舞台はアパートとバス停、登場人物は3人の若い女性とごく普通で、とりとめない日常の描写と見えるシーンがしばらく続く。
その会話の中で、彼女らが過去に経験したもうひとつの世界がぼんやりと浮かび上がる。それは、暗い映画のヒロインの、銀行強盗、詐欺師、大道芸人だった。
その3人を強烈に結びつけるのが、屋敷童子だ。はじめ頭の弱い女にしか見えていなかった座敷童子が、過去を共有したことで他の2人にも見え始める。
そこで3人は、屋敷童子に自分の相手役(ヒーロー)を見る。そして、3人は日常を捨てて非日常へ出発することを決心する。
その終幕近くの映像では、彼女らの相手役(ヒーロー)のウォーレン・ベイティやアンソニー・クインがしつこいくらい映写される。それに後押しされるように彼女らは出発するのだが、ここまでくると、映像のイメージに頼りすぎていることに辟易してきた。
イメージを借りるならそれもいいが、作者の言葉で語るべきではないのか。演劇に表現上のルールがあるとは思わないが、これは創る姿勢においてルール違反ではないのか。せっかく日常、非日常の落差をそれなりに描きながら、映像のイメージに逃げ込んでいてはどうしようもない。