うわさには聞いていた「うずめ劇場」の舞台に初めてふれて、予想していた以上の面白さに正直びっくりしてしまった。
第一幕「死・・・」は、人の死を扱った7つのオムニバス小品(SCENEと名づけられている)であるが、第二幕「・・・あるいは、死せず」は偶然が変わったらどうなるのかを、最後の小品から最初に向けてバックしていくと、それぞれの小品がみごとに関連づけられる。第一幕で積み上げたドミノを、第二幕で逆方向に倒したらみごとな模様が現れた、という印象だ。そのΛ字型といえる作品の構成を生む発想がすばらしい。
デビッド・ルヴォー演出の「ブルールーム」とロドリゴ・ガルシアの映画「彼女を見ればわかること」を思い出した。
しかし同じオムニバスにしろ、性(交)にかかわる小品が円還する「ブルールーム」や、愛と孤独と希望についての小品を関連づける「彼女を見ればわかること」よりも、更に一歩踏み込んでいる。それぞれの小品が影響しあって、第一幕で死んだ人が死なないというまったく別の状況になってしまうのが何とも面白い。
それぞれの小品の死に至るまでの典型的な状況を簡潔に表現しているのもいい。だから、第一幕だけでも十分鑑賞に耐える。
やや強調された人物の描き方の切れ味は鋭い。特に、SCENE3の母やSCENE6の婦人警官などの、どこにでもいるような偏狭で独善的な人物の造形が冴えている。
各SCENEの終わり近く「いまわのきわ」になると、その死までをビデオカメラが追い正面のスクリーンに映写される。死の瞬間、映像は静止する。その間に次のSCENEへの転換が行われる。そのように、映像を巧みに使った演出も冴えている。
極めつけはSCENE7だ。
殺し屋に狙われた男が殺し屋から「神が現れたら助ける」と言われる。第一幕の大詰め、男は「神が自分に乗り移った」と言うが、殺し屋は男を殺してしまう。
第二幕はSCENE7の途中から始まるが、今度は男に神がに乗り移った状況がやや明確に表現されていて、殺し屋はたじろぎ男は殺されない。ここからSCENE1に向けて各SCENEが関連しあって「死なない」状況に変わっていく。
このところの圧倒的な面白さに引っ張り込まれてしまう。
しかしその死なない状況もSCENE1だけは例外で、劇作家は死んでしまう。その死はSCENE7の神の出現と対峙しており、さらに第一幕への連還とも取れる象徴的な構成といえるが、劇作家役のペーター・ゲスナーのセリフが聞き取りにくいこともあって、私にはややわかりにくかった。
それにしても、よくぞこのようなすごい戯曲を見つけてくるわ! 演出家のしごとはこの作品を見つけてきたことで半ばは終わっているようにさえ思える。
俳優にとってもやりがいがありすぎるほどの作品と思われるが、演出家はとことん挑戦させており、俳優もそれにみごとに応えている。むしろ、いい戯曲でないと俳優は育たないのではないかとこの舞台における演技を見ていて思った。
この作品は、私が観た九州で作られた作品としては、泊篤志の作品とともに最も上質な作品だ。劇作も演出も、その質において北九州に大きく水をあけられている福岡の現状をあらためて思い知らされてしまった。もう何年も前から言われている福岡の「演出家不在」はいつ解消するのだろうか。