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《2002.7月−2》

カタルシス拒否の演劇は可能か
【Re:”Hello-Hello” (あなピグモ捕獲団)】

作・演出:福永郁央
5日(金) 19:00〜20:30 アクロス福岡・円形ホール 3本通し4500円


 観てからちょっと時間を置いたら、この舞台の印象はグングン遠ざかり、観たときはわかったと思ったストーリーと面白さもどっかにかき消えてしまった。これぞ「カタルシス拒否系の芝居」(福永郁央と川原武浩の芝居を私が勝手にこう呼んでいる)の真骨頂といえなくもない。
 きちんと形象化がされていて印象的なシーンなど忘れがたく憶えているという芝居をいい芝居だとすれば、そのようなものを目指さない福永郁央の芝居づくりそのものが自己矛盾ではないのかという気がするが、ひょっとして演劇の全く新しい地平を切り拓くのではないかという期待も捨てきれない。
 しかしこの公演を見るかぎり、不満の方が大きい。

 観客である私から見れば、わかることを拒否したつくりといえばいいのだろうか。
 その作り方は、ドラマを否定するために、前のシーンを否定しつづけるような作りだ。シーンは決して積みあがらない。限りなく壊しつづけるという感じなのだ。
 鈴木忠志はコラージュで一見積みあがらないように見えるが、個々のシーンの力は強く全体構成としても大きなドラマを感じさせる。ブレヒトのような異化効果をねらうにしろ、否定すべきドラマがあることが前提となる。果たしてドラマを否定しつづける演劇は可能なのだろうか。

 そのようなドラマを目指すにしろ、きちんとしたドラマを書けることが前提であろうが、福永にはきちんとしたデッサン力はあると思う。
 問題は、否定しつづけるにしろそのパワーが弱いことだろう。脚本ばかりのせいではないかもしれないが、もっともらしいところに逃げ込むような遊びともとれるテンションの低さがこの作品を平板にしている。
 そういう面から言えば、否定しつづけることに内在するかもしれないドラマを引き出すのは、俳優のパワーも問題になる。

 そのパワーがあるか、俳優の演技を見ていこう。
 その演技がなんとも弱い。俳優は生身の体をもてあましているように見える。形にとらわれているのはややそのような演出だからしょうがないとしても、そこにもう少しパワーを感じさせてほしかった。そして無理やりでもいい、象徴的に内在するパワーを引き出すことが少しでもできれば、福永の戯曲に希望が持てるのだが。

 そのような私の不満をよそに、舞台づくりはテクニカルな面に注力していて、それが高いレベルで成功しているのがむしろ憎たらしいくらいだ。ダイナミックに動くたくさんのライトを駆使して、シーンの印象を強調する。むしろ、何のために?という印象さえあるくらいだ。
 舞台美術だけみればこのごろ随一の公演だと思う。そこだけでも十分に楽しめる。

 宇宙幻想曲三部作の再演1作目のこの作品は私にはこんな感じだった。あと2本、どのような舞台になるのか楽しみではある。
 初日を観たが、かなり空席が目立った。


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