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《2002.8月−3》

レベルが低すぎる●福岡の俳優の演技
【レストア (レストア プロジェクト)】

作・演出:梶原俊治
3日(土) 19:00〜20:30 ぽんプラザホール 1800円


 福岡の演劇の演技のレベルの低さがモロに見えてしまった公演だった。
 福岡以外の人の作・演出で福岡の俳優による公演だが、そのことが福岡の俳優の演技の欠陥を際立たせた。ずば抜けた俳優がおらず全員の演技が何とも均質に見えたというのも福岡の俳優の演技の特質を表しているように思える。
 その演技の質の悪さについて具体的に見ていこう。

 前提条件をはっきりさせておこう。
 私は 自由派DNA によるこの戯曲の大阪バージョンは観ていない。しかしこのところ、福岡に来た「太陽族」、「転球劇場」、「南河内万歳一座」のほか、「ピッコロ劇団」、「世界一団」を観て、鍛え上げられた俳優の演技の醍醐味を味わってきた。
 それらの劇団に連なる 自由派DNA の舞台は、梶原俊治の思いのこもったこの戯曲を十分に表現していたであろうことは想像できる。
 ここでは福岡のレベルで議論することはしない。あくまでも関西のレベルで今回の公演を見たらどう見えるかについて考える。

 この舞台の俳優の演技は、なまくら の一言に尽きる。
 演出に触発されていつもよりはいい演技をしていると思えるが、それでも関西に比べて差がありすぎるのだ。
 演技が演出についていっておらず、結果この戯曲の面白さがほとんど出ていない。大阪バージョンと似て非なるものとなってしまったのではないかと思う。

 ピノキオと結婚式と家庭生活などのいくつかの話が、脈絡なくさりげなく置かれ、 それらが一見寄り道ばかりして話が拡がり、全体が連携してくるという構成だ。
 その寄り道のところの作りがいかにもフレキシブルというのが新鮮で、突然小気味よく他の話に飛ぶというのも面白い。そのような戯曲の切れ味は、当然に演技の切れ味も要求する。
 パワーと切れ味だけの演技はド派手な芝居ではいやというほど見られた。この作品はその上にリアリティを込めることを求めており、その分むずかしくなっている。しかし一流の劇団はどこもそのレベルの演技は普通にやってのける。

 今回の公演の演技がどう見えたのか列挙してみると、
○ピシリと決らない。わざとらしい。ぎこちない。  ○不安定。ぶれる。ノイズが混じる。  ○突っ込まない。人物の印象・個性が弱い。  ○アップアップ状態。台本のことばについていけない。  ○言葉の歯切れがよくない。  ○変り身の切れ味が悪い。  ○俳優の地が色濃く出る。  ○存在感がない。雰囲気が弱い。
等々であった。
 そのような魅力的ではない演技から、全体的にはぬたりのっぺりの印象をまぬがれず、人物の存在感と場面のメリハリは弱く、見ていて気持ちよくならずいっこうに舞台に引き込まれない。
 俳優たちはそのような舞台であることをどこまで認識しているのだろうか。もしその認識がないとすれば、知識とイメージ力が欠如していると言わざるを得ない。

 なぜ述べたような福岡の俳優の演技なのだろうか。
 それは「イメージすること」も「イメージを形にすること」のいずれもがきちんとできていないためだ。
 この芝居の前振りでの話ではないが、観客にいう前に俳優相互あるいは演出家との「イメージの共有」こそ何にも増して必要なことではないだろうか。そのためには、俳優個々人の戯曲の読みこなしこそがその出発点になるはずだし、その上で徹底的な意見交換をして、イメージを交流させ明確化しふくらましそれを共有化することが必要で、それが具体的な演技を生み出す前提になるはずだ。
 顕れたものから見て、どうもそれらのことがきちんとできているとは思えないのだ。演出家の指示どおり動けばいいという姿勢しかないのではないかと思う。演出家と丁丁発止やっていれば、もう少し演技が生きてくるはずだ。各シーンがボケた弱々しい印象しかないのは、まず俳優自身のイメージ不足が原因だと明確に認識したがいい。

 つぎに「イメージを形にすること」すなわち表現のテクニックの問題だが、この舞台の演技は、捉えたイメージを表現するに表現力が低すぎてそこにも大きなギャップが存在する。もともと弱いイメージを更に弱めてしまった。演出は演技できちんと表現させるのをあきらめて、形だけでも何とかしてくれ、あとはテクニカルでカバーする、と言っているように私には見えた。
 演技の幅の何という狭さだろう。喜怒哀楽などの表現を、太く細く、高く低く、速く遅く、強く弱く などどうにでもできる引き出しの持ち合わせはない。押さえた演技で少しの動きに大きな意味を持たせるとか、アンサンブルで場面の印象を強めるとかがやれるレベルではない。
 それどころか、俳優のクセさえも払拭されていないのは、いかに柔軟性に欠けているかの証明だ。いろんな表現に踏み出すために身体をニュートラルにするような訓練はおろか、静止すること、きちんと動くこと、きちんとしゃべることさえも十分にはされていないのではないかと感じた。無意味な動きが多く、場面の印象を発散させてしまっていることからもそれはわかる。俳優自身にそのような認識があるのだろうか。

 なぜそのような演技から抜け出せないのだろうか。答えは簡単だ。訓練不足とくにOff−JT不足だ。訓練といってもその幅は広いが、ほんとうにすばらしい演技あるいは演劇のイメージを、俳優自身がまずきちんと持つことからしか何も始まるまい。

 初日を観たが、演劇関係者でほぼ満席だった。


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