初めて観た長塚圭史の作品は、圧倒的な面白さで大いに楽しめた。現代の状況を捉えるひとつのやり方を見せられた思いだ。
大勢いる若手のなかでもなぜ彼が注目されるのかがよくわかる充実した舞台だった。
いくつかの芝居が組み合わされたように見えるのは、6年前の旗揚げ公演でのオムニバス形式の「アジャピートオジョバ」のリメイクだからだろう。けっこう長くて込み入ったと見える作品だが、だれるところはまったくないし、微妙なところまで表現はきっちりとされていて、印象はすっきりしている。
弱者の立場に立って町議に立候補の国旗。その妻は木村という男を拉致して子育てごっこだ。国旗に雇われる着ぐるみ劇団の新海くん(なぜか彼だけ役名に敬称つき)は抹子と同棲している。劇団員からトレンディ女優への道を歩む千衿は拉致された木村の恋人。それに終幕に千衿の家に出現する男(彼には名前がない)が絡む。
舞台作りのセンスは抜群にいい。アイディアたっぷりだ。
装置は上下2層になっていて、階上部分が屋外で坂の上の趣き。階下は、国旗の家、抹子の家、千衿の家に、暗転の間あるいは人物にスポットライトが当たっている間に変わる。時には階上階下をごく自然に同時に使う。
小道具のアイディアがいい。抹子の部屋の傾いたテーブル、新海くんが抹子にプレゼントする猫の鈴などで舞台を多彩にし、場合によってはストーリーにうまく絡める。国旗の選挙宣伝用の着ぐるみ「クニハタン」は「国破綻」を思わせるなどの遊びも楽しい。
戯曲のセンスもすばらしい。
現代の狂気が引きおこすことがらを描くのに、山崎哲が到達して引き返してしまったその先の地点から出発している。「理由なき」という言い方をするが、理由はある。問題はそれがわかりにくいというだけだ。
人の中の入り組んだ気持ちがゆらぎただよいながら脈絡ないように続いていくという状況について、長塚はむしろそれが当たり前だという捉え方のように思われる。それを表現するにも真正面からはとてもダメで、からめ手から状況ごといくつものレトリックを仕掛けながら雰囲気でもって実体に迫る。とらわれず軽く軽くもっていく。
からめ手から迫るというのはここでは、国旗の妻が実は拉致されてもう何年も監禁されているということ。だからこそという衝撃が走る。そんな構造なのだ。
ゆらぎただよいながらも、それぞれが持っている強い思いを表すのに極端な状況を作り出す。ここでは身体の障害を出すことで常に肉体を意識させ、肉体の不便さや触れ合いのありようを表現する。人物のほとんど全部が肉体を傷つけ障害者になるというすさまじさだが、軽く表現していて暗い感じはない。
そのようなまなざしの鋭さと奥深さは松尾スズキに似ているが、表現方法はもっと軽くしなやかだ。