福岡演劇の今トップへ 月インデックスへ 前ページへ 次ページへ


《2002.8月−16》

賢治神話に★寄りかかりすぎ
【フランドン農学校の豚 (NANYA−SHIP)】

原作:宮沢賢治 台本:南谷朝子 演出:神埼由紀子
29日(木) 19:40〜20:40 甘棠館Show劇場 2000円


 ちょっと変わったイベントと見れば楽しい。つい感動を求めてしまったから、イベントとしてちょっとした楽しみで終わっているのが残念だった。眠たかったが、それは私に作品を捉える感性が不足しているためとばかりとも言えないように思う。

 人形劇である。
 10センチにもみたないような小型の人形が3体、校長をはじめフランドン農学校の人たちで、豚は人の手で形作る。人形支える棒と操るための糸によって舞台の上下にいる2人の人が操作する。
 正面の人形劇舞台左に音楽担当のたまの知久寿焼。語りを担当するこえ(声)は女性3人で、正面の人形劇舞台右と上手下手の壁際に位置する。
 はじめに知久寿焼が2曲くらい本編と関係のない歌を歌ったあと、語り中心の人形劇が始まる。

 物語は、「家畜撲殺同意調印法」という法律ができて、豚を処分するための農学校側と豚とのやりとりを、豚を擬人化して人間並みの感情と智恵があるとして人間と対等に描く。
 承諾証書に印をつくことを求められて悩んだ豚は、校長の勢いに脅えて印をつく。そして強制肥育させられて堵殺されてしまう。
 確かに寓意に満ちていていかにも奥深そうには見えるが、聞いていて楽しい話ではない。それがそのまま提示されたんじゃちょっとつらい。

 人形の人物の鼻を豚の鼻の形にして人を豚の側に近づけるというような工夫や人形の動きの面白さはあるが、人形劇の舞台は背景もなく多彩な表現もないためすぐに飽きて興味を繋ぐのは15分が限度だ。
 台本は原作を膨らませるよりははしょっていて、感情移入を拒否するくらい淡々としている。語りもそれにあわせている。そして、堵殺されるところで唐突に終わる。そこまでは原作に忠実なのに、豚の死の表現はあまりに簡単なのだ。「一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ」と書かれたその後の豚について全然触れないのも手落ちではないだろうか。

 それにしても、「子どもも見られる」となるとなぜか反射的に「賢治童話」という発想が多すぎないだろうか。しかも賢治をありがたがって絶対視し寄りかかり深読みを強制するものの多いことはどうだ。
 この作品も、「この面白さがわからないなんてアホね」と言われているような気分だが、面白さをもう少しふくらませてもっと豊かに表現してほしかった、と思う。小品は小品なりのエスプリがあればそれでもいいのだが、それも不十分だ。

 このユニットの主宰で今回こえを担当する南谷朝子を初めて見たのは二兎社の「僕の東京日記」(1996)の全学連の女闘士役だったが、学園闘争の現場から本物の女闘士がタイムスリップしてきたようなあまりのリアルさにびっくりしてしまった。以後、「東京原子核クラブ」(1997)、「怒涛」(2001)、「萩家の三姉妹」(2001)と役に肉薄する演技を楽しんできた。
 まじかに見る南谷は小柄で一見女優としての資質に恵まれているようには見えない。それがひとたび舞台に立つとその役への入れ込みに圧倒される。
 しかしこの作品では南谷らしさはなく、そういう面でも不満が残った。

 夜の回は満席だった。観客に子どもも多いが、おとなの男は私を含めても片手に足りない人数だった。


福岡演劇の今トップへ 月インデックスへ 前ページへ 次ページへ