リアルな演技と熱いパフォーマンスとの落差で互いを際立たせたみごとな演出だ。戯曲が象徴していたものが引き出され、重いテーマが楽しめるレベルにみごと形象化された。
この公演は北九州演劇祭10周年記念公演で、泊篤志の岸田戯曲賞候補作をク・ナウカの宮城聰が演出した。
戯曲はみごとな構成だ。
太平洋戦争後に日本から独立した「糧流島(カテルジマ)」は鉄の島で、鎖国政策を続けて経済は行き詰まり貧困と飢餓に苛まれていた。その中での楽しみは卓球観戦で、この作品の舞台は卓球チーム。
その卓球チームメンバーから島抜けする者が現れた。そして島抜けを渇望する者も。そのチームに14歳の新人女子選手が入部。さらに日本の雑誌記者の取材があり、超管理社会の状況に部員たちの思いが翻弄される様を描いていく。それは島を出て行くことを渇望している者にもそうでない者にも同じように運命として襲いかかるのだ。超管理社会のなかでの命の軽さ、その隠蔽性などゾッとするような部分までを、選び抜かれたことばでくっきりと描き出す。
超管理社会のその島は、人々を苦しめていた炎龍をやっつけた華玉木(ハナダマキ)の子孫によって支配されている君主共和国(矛盾!)で、その英雄譚が「華玉木」という伝統芸能となってひんぱんに演じられている。卓球部もご機嫌とりのためにそれを上演することになる。
炎龍のくびきから人々を解放した華玉木と、いま島から外の世界に向かおうとする板民を二重写しにすることで、かって炎龍を退治した者(の子孫)がいまは炎龍となりはててしまったことを際立たせる。
宮城聰には理性を内に秘めた情念の演出家という印象をもっていたが、この作品では理性と情念の場面がみごとに分かれている。
基本のストーリー部分は押さえた徹底的にリアルな演出だが、「華玉木」のシーンは徹底的に燃え上がる演出だ。「華玉木」の炎龍退治と島脱出の希望を重ね合わせることで、「華玉木」の積極的なエネルギーを引っぱりだそうとしている。
超管理社会の蹉跌は容赦なく卓球部を襲う。新入部員は両親を助けるためにスパイになったのだった。その挑発に引っかかって公安につかまったのは板民ではなく、板民からテープを預かった多久だった。
部は廃部。だが新入部員の両親は助からない。板民は島抜けが成功したのかどうかわからない。――超管理社会のパックリと口をあけた暗黒が現前する。
このような超管理社会と今の日本とどっちがいいかと訊かれたら、即座に日本だと答えるだろう。それでも、やや軽薄に見える日本人記者・古池との議論を通して、糧流島には今の日本で失った何かがあると言うのだ。イデオロギッシュなことではなくて、不自由で貧乏な島から見た「日本」の今を、いいことばかりではないぞとばかり相対化してみせる。
演出上のアイディアはたっぷり。アフリカの打楽器で背景音を作り、静かな場面でも豊かな情感を出した。上下2層の装置のセンス抜群だ。
俳優も抑えた演技で人物をよく表現した。
この舞台は9月28日から10月4日までで全部で10ステージ。私の観た日はウィークデイのせいもあろう、若干空席があった。