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《2002.11月−8》

脚色部分と創作部分でガラリと◎色合の違う楽しさ
【新・明暗 (二兎社)】

作・演出:永井愛
16日(土) 19:05〜22:10 大野城まどかぴあ・大ホール 4050円


*** 推 敲 中 ***

 久々に観る二兎社のこの作品は、やや毛色が変わった作品だが、その毛色の変わっているところがおもしろかった。
 楽しんで作っているように見えるこの作品で、いつもきっちりとした舞台作りをする永井愛のややぶっ飛んだ一面を見せられた。でもそうでもないか、初期の作品「カズオ」などずいぶんぶっ飛んでいたもんね。

 どうおもしろかったのかというと、脚色と創作のところではガラリと色合いが違っていて、その創作部分に永井愛らしく人間に肉薄して引っ張り出したドラマがキッチリと出ていることだ。漱石の原作は未完で、3時間という長い上演時間のうち最後の30分が漱石が書かなかった部分で永井愛の創作になる。どっちかというとその30分のために残りの部分があるという印象をもつほど創作部分の密度が高い。

 漱石の「明暗」はむしろ未完であることが魅力で結末が分からない分いろいろ想像させられる楽しみはある。そこに描かれたことは「百鬼夜行之図」であり「善への道のついた悪の描写」(いずれも小宮豊隆による解説)というが、現代からみればそんなの別にどうということもないという感じで、やや高踏的で意味ありげな性格描写小説ではないかという気がする。結末で救いを描こうとしたとも思えない。
 その原作を永井愛は「優柔不断」のドラマと捉えた。
 清子に振られて延子と結婚した津田は、清子のことが忘れられない。そのことで延子との間には微妙な距離がある。津田の親の援助でぜいたくな生活をしているが、そのことへの自省はない。それに延子の親、津田の粗野な友人・小林、津田の妹・秀子、津田の庇護者の吉川夫人などがからんで、津田の痔の手術による入院と清子に会うための温泉療養でのできごとを通して、津田の「優柔不断」ぶりを暴きながらストーリーが進む。

 脚色部分では、楽しんで脚色し、徹底的に楽しんで演出している。
 設定を現代に置きかえてはいるがストーリーは原作そのままで、舞台はそれを手際よく荒っぽいと思えるほどに突っ込んだ演出で追う。極端にまでに強調された演技や、突然に観客にしか聞こえない本音トークがあったりと、全体に戯画的でリアリティにこだわらない作りだ。
 脚色は原作の抽象的でしつこい心理分析がうまく整理されていて、そのエキスを手際よく抽出した。しかし創作部分のためにはストーリーを追いすぎかなという気もする。  演出はそれをデフォルメして強調する。演技はリアルさを無視してユーモアをねらった極端さだ。俳優はそれぞれいくつかの役をこなすのだが、同じ俳優にわざと両極端の役を当てる。延子と清子を同じ女優が演じるのだ。  観客を喜ばすためとしか思えない「BSE」や「外交機密費」などの時事用語が出てきてストーリーにからむというのも永井戯曲にしては珍しい。

 創作部分は、永井本来のきちんと追い詰める作劇法で人物に迫り、永井の考えるテーマがくっきりと浮かび上がる。その部分に入ると舞台はさらに生き生きしてくる。
 津田が清子に自分を振った理由を問い詰めると、「関を好きになったから」とこともなげに言う。しかし、それはうそだと清子は否定し「ずるい人だから振った」と変わる。さらに、「今回損得抜きで自分を訪ねてくれたことでまた好きになった」と、清子は大きく踏み込み津田を誘惑する。が、津田は折りからの嵐をついて誘惑から逃れるために旅館から逃げ出す。と、追ってきた清子は言う、「あなたは肝心の時に逃げ出す人だから振った」と。息もつかせず三転四転して、津田の性向をあぶりだすのはみごとだ。
 ラストは清子の呪縛から解き放たれてハッピーエンドだが、朝の光のなか妻・延子や妹・秀子、吉川夫人の元に戻る津田は、それでも「もうちょっとここの空気を吸ってから」と鼻をふくらますという皮肉。

 この部分には妻から逃げ出そうとするアパレルメーカー社長とその妻を配し、瀧で死んだ津田と同じような立場の商社マンの話をからめて、津田と清子のありようを強調する。

 清子には会ったが肝心の話はしていない原作の最後だからふくらませ易いとはいえ、かなり突っ込んだ展開だ。ただ脚本部分とのつながりがやや弱いのが難点か。このような集約なら脚色部分であそこまでストーリーをていねいに追う必要もない気がする。

 装置は永井作品には珍しく抽象的だ。二階建てで立体感は十分で、それをうまく使いこなしていた。また、回り舞台で機動性を高めていて舞台転換のスムーズさはみごとだった。

 ブロードウェイ風に入場者全員に「PLAYBILL二兎社」というパンフを配っていて、有料のパンフの販売はない。全部で8ページの薄いものだが基本的な情報は盛り込んであり、観客としては助かる。他の来福劇団もこの形にしてくれないだろうか。

 観客は半分くらいの入りだから500人には達していないのではなかろうか。東京公演ではたぶんチケット争奪戦が起きていただろうに、福岡でなぜもっと観客が集まらないのか不思議でしかたがない。
 永井愛作品の福岡での上演は、2001年7月に「ら抜きの殺意」(テアトルエコー公演)が市民劇場例会で上演され9811人が観ている。その5%の人が永井愛に興味を持ってこの公演に足を運べばそれだけで500人近い観客になるはずであるから、市民劇場の会員はその例会以外の公演は観ないというのがよくわかる。
 それはいいとしても、この秋随一の公演なのに演劇関係者の少なさが気になる。福岡の演劇関係者には一流の舞台に触れて視野を広げるという気はないようだ。仲間うちの芝居しか観ないという悪弊が改善される気配はない。


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