楽しめるところまで練り上げられた舞台だ。
ばぁくぅ公演を観るのは3回目だが、今回は日本の現代劇の上演である。惚れた戯曲に入れ込んだという公演で、この劇団らしいきちんとした戯曲の読み取りと工夫された演技で、密度の高い舞台になった。
八木柊一郎のこの戯曲は1983年に発表された連城三紀彦の小説「紅き唇」を原作としているが、うまくこなれていてオリジナルといってもいいくらいだ。
あるいは叙情的に引っぱりあるいは手堅く押さえ、硬軟とりまぜてバランスがいい。セリフは魅力的でありツボを押さえている。人物もその個性をよく描いている。芝居の現場を知りつくしていて、上演時の舞台空間を意識した場面転換などの構成がみごとだ。代表の佐藤順一が惚れたのもわかる。
64歳の梅本タヅの次女・文子の葬式の日から始まる。文子は28歳で、新婚4ヶ月だった。タヅは長女との折り合いが悪く、文子の夫・安田のアパートに同居を始める。
タヅの過去が少しづつわかる。戦前に旅館勤めをしていたとき、同僚のとよが恋していた川村少尉を、密かにタヅも恋していた。その後の不幸な結婚もありいまだに戦死した川村が忘れられないでいる。南方への出発前に川村が、とよには口紅をやり、自分がもらったのはビスケットだったことの口惜しさがトラウマになっている。
その川村と安田が瓜二つだった。その秘密は、長女あてに亡くなったとよの妹から川村の写真が送られてきたことで長女に悟られる。
上演は戯曲に忠実に行われ、戯曲に肉薄してその魅力を引き出している。
演出は、もともとメリハリのある戯曲をまずキッチリと捉えることに腐心する。その上で主旨に沿って各シーンを強調し際立たせようとする。例えば、「ゴンドラの唄」の歌詞を軍歌の曲で歌うところなどにそのような工夫が生きていた。
演技は、ダイナミックな状況変化までを表す丁々発止のセリフを、ややぎこちないところはあるが必死でフォローするという風情。結果、いろいろな思いを抱えた人物をよく形象化した。
惜しむらくは舞台美術が冴えないこと。装置は多くの場面転換に耐えられるようにやや抽象的なのはいいとしても、戸のドローイングや壁や柱の色などいかにもおおざっぱだ。照明、音響、衣裳にもいつもの冴えが見られないように思った。
最後にタヅは、安田(=川村)に選ばせた口紅を自分で自分にプレゼントする。「そのことで(川村少尉から解放されて)自由になった」と、いっしょに観た私の友人は言った。そうだろう。
64歳という年齢に近くなってきた私としては、自由になったあとドンドン恋愛すればいい、と思ってしまう。いくつになっても「あかきくちびる」はあせないのではないかと、つい希望的観測をしてしまう。
この戯曲は1989年に発表され、その年に文化座で鈴木光枝主演で上演されている。
この舞台は17日から24日まで12ステージ。私の観た回はほぼ満席だった。