何ということもない展開で、何ということもない平凡な作品に見えながら、飽きさせない。
それは、エネルギーを集中させて、一点突破ができたためだ。
のぞきをするための透明人間になるジャージを着ることを勧められた男の妄想が描かれる。
透明人間が忍び込んだホテルの一室にやってきた男。そこに昔の女があらわれ、結婚するために必要だからと貸した金の返済を迫る。さらに女の今の男が乗り込んでくる。
男は、組の金を盗んで逃走中で、兄貴分が捕まえに追ってきて男を助けようとするがダメで、結局は全員(透明人間も)組が差し向けた殺し屋に殺されてしまう。
だから透明人間になるジャージをのぞきにつかうのはいやだ、というのがオチ。
一点突破の時というのは、クライマックスの、殺し屋の機関銃乱射だが、そこまでじっくりと積み上げる。時にたいくつなのはしかたがないが、そこは個性的な役者が引っぱる。
露出度大の女(繭子)がキュート。兄貴分(大谷豪)のどぎつさもいい。これらの役者の個性がぶつかり交錯しあっているところは楽しめる。
そのような効果は、作者以外が演出しているためにあらわれた。
作者以外が演出することで却って作品が掘り起こされて、作者が意図した以上におもしろくなった。
ただそれができたのは、比較的単純なファンタジーだったからということは言える。もう一段複雑なテーマと複雑な構成で、さらに突っ込んだ作品だったら、一点突破とは行かず、さらに大きなエネルギーが必要になる。そのような作品までを見据えてほしいと思う。
演出者がパンフに、
「えっと当初この欄には他の団体やらなんか変な評論家やらに喧嘩でもふっかけてみるか、という主旨だったんですがなんかどうでも良くなったんで止めました。」
と書いているのが気になった。
それに続く、「喧嘩売ってるみたいになったけど」とまとめている文章は、ほとんど意味不明だ。
ごく単純に考えて、仮面工房の舞台を見る「評論家」がいるとは思えない(それよりも前に、福岡に演劇「評論家」がいるんだろうか)し、そのような人が書いた地元劇団の「劇評」はかって見たことがない。どっかに載っているならぜひ見てみたいものだが、あるとは思えない。そのような、存在もしない「評論家」を相手に喧嘩をしようというのか。
百歩譲って、もしそんな「評論家」が存在するとしたら、そんな喜ばしいことはないではないか。観て書いてくれるだけでも儲けもので、なぜ喧嘩を売る必要があるだろう。その、喧嘩を売る感覚がわからない。
この舞台はきのうときょうで4ステージ。私の観た最終ステージは超満員だった。