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《2003.5月−15》

まったく生煮え
【夜の来訪者 (福岡現代劇場withばぁくぅ)】

作:J.B.プリーストリィ 演出:猿渡公一
30日(金) 19:05〜21:00 アトリエ戯座 招待


 素材(戯曲)をそのままドサリと投げ出したような舞台で、工夫もなく演出のかけらも感じられない。俳優の演技まで、みごとに殺してしまった。

 娘の婚約祝いの席に現れた警部を名乗る男。男は、若い女性が自殺したことを知らせ、家族および娘の婚約者のそれぞれが、その女性の自殺にかかわり原因があることを語る。家族の真実が露呈し、家族は動揺し対立する。
 よくできていて、そのまま置いただけでもそれなりの説得力は持つという骨太な戯曲だ。

 だからといってこの舞台のように、手をこまねいてそのまんま置いておくだけというのはあんまりだ。
 ダラダラと単調で、この舞台には必須の緊張感がほとんどない。ドラマの転換点での切れはないし、対立や対比の表現も弱い。観客の意識の流れなど眼中にない。どう表現するかという思いは弱く、何か舞台に乗っておりさえすればいいと思っているんじゃないか、と毒づきたくなってくる。

 演出が演技をどう殺しているのかを、それぞれの役で見ていこう。
 主人アーサー・バーリングの 佐藤順一 は、市長まで勤めたというどっしりとした大物ぶりがない。セリフの即物的な表現が軽薄な人物像を作ってしまった。そこの説得力がないから、それでもなお持つ世間体へのこだわりなどの俗物性が際立たない。
 妻シビルの 青木あつこ は、何という皮相さ、うるおいのなさだろう。この女優の表現力は完全に封印されたままだ。
 娘シェイラの のだのぶこ は、演技が硬い。ちょっと考えれば、もっとみずみずしくこの女性を演じられるはずだ。
 息子エリックの 中川好仁 は、まったく軽薄にしか見えず、とても俗悪な大人と対峙するような誠実さは感じられない。
 娘の婚約者ジェラルドの 坪内白蓮 は、自然さよりもわざとらしさが目立つ。
 グール警部の 下川一弘 は、役の捉えかた、表現のしかたが基本的に間違っていて、軽すぎて存在感が薄く、家族にプレッシャーをかけるべきキーマンがキーマンになっていない。観客を無視した自己ペースの単調なしゃべりが作るテンポのとろさ、ミステリアスな雰囲気のなさ、状況の変化に対応する表現の変化のなさ等々、わざわざ効果を弱めるような演出・演技ばかりで、何を考えているかわからない。

 しつこいようだが、演技の問題点をもうすこし見ていこう。
 丁々発止ということをまったく考えない。話をさえぎったりすることはなく、相手がしゃべり終わるまでゆったりと待っている。そしておもむろに口を開くが、なぜかそのとき一呼吸おく。しゃべるとき例外なくアゴがあがっているのも不自然だ。だがどうも、そのような演技を自然な演技と考え違いしているふしがある。その結果、緩急も強弱も乏しい、緊迫感のない薄っぺらな舞台になってしまった。
 このような演技の問題は、演出力のなさに起因している。なぜこのレベルの人が演出するのか理解に苦しむ。

 この公演は、福岡現代劇場創立四十五周年記念公演で、ばぁくぅとの合同公演だ。全部で8日間10ステージ。私の観た回は満席だった。
 パンフレットに、「福岡現代劇場のあゆみ」として、これまでの上演作品の一覧が載っている。いろんな作家に取り組まれているのがわかり、その演目には若干教養主義のにおいがする。


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