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《2003.5月−16》

斎藤憐の変質を考える
【恋ひ歌 ―白蓮と龍介― (地人会)】

作:斎藤藤憐 演出:木村光一
31日(土) 13:35〜16:45 ももちパレス 3100円


 「たっぷり」と「間延び」とは紙一重。
 この舞台においては、むりやりに「たっぷり」にしているという印象だが、ときどき「間延び」が忍び込んで、若干眠たかった。
 むりやりに「たっぷり」というのは、とにかく何でも詰め込んでしまえとばかりで、よけいなセリフが多くて、ピリリとしない作品になった。むしろそれは大衆性に向けて狙ったところだったかも知れないが、私はあまりいいとは思わない。

 柳原白蓮と宮崎龍介の恋の話。
 白蓮は、妾腹だが伯爵家の娘で、歌人。25歳で筑豊の炭鉱王伊藤傳右衛門と二度目の結婚をするが、夫に絶望し、龍介にひかれていく。
 そして白蓮は、傳右衛門への決別宣言を新聞に掲載し、家を出て、困難を乗り越えて龍介と結婚する。時に白蓮36歳。

 可もなく不可もなく、ごく普通のできばえという舞台だ。
 白蓮の恋を紡ぎ出し、しつこく描き出そうとする。アイディアも込められていてそれなりには楽しめるが、狙いが低く作品の密度は薄く、このごろの斎藤憐作品にみるのと同じような不満を拭いきれない。

 二重の狂言回しがいて、説明過剰になってしまった。
 ひとつは、漫才トリオ松竹梅。漫才に乗せて社会情勢などの説明のほか、それぞれが劇中のいくつかの役を演じる。よく使われる手だが、作為が強すぎる。
 もうひとつは、龍介の友人・清水の所属する朝日新聞社会部。白蓮のまわりの状況を、記者のことばなどで説明する。ややくどい。
 それらによる狂言回しのことばが多すぎるのだ。吉野作造、大杉栄、河上肇などの時代を反映する人名がセリフに登場するが、そのような状況も、登場人物が簡潔にしゃべるセリフに込めるのがほんとうだろう。セリフが平板で、緊張感がなくなってしまった。これが作品のねらった大衆性だとすれば、なめるなと言いたい。

 そのような線に沿って書かれているから、肝心のふたりの恋が雑多なもののなかに埋もれてしまった。ふたりの恋を描かず、まわりばかりを描いている。
 ふたりはどうして恋に落ちたのか。その恋はどのようなものか。それを状況証拠で描くのではなく、ふたりにもっと語らせればいい。状況証拠の数分の一のことばで、強く思いが表せたはずだ。真実のまわりをグルグル廻っているもどかしさがある。

 人物も矮小化してしまった。
 その典型が、龍介の父・宮崎滔天。すでに宮本研「夢・桃中軒牛右衛門の」(1989)で滔天の大きさは知っているが、この舞台では野にある滔天とはいえあまりに凡人すぎる。
 それを見ていると、短歌の激しさに対峙するだけのものがこの白蓮にあるのか疑わしくなってくる。三田和代の白蓮は、ウィットに富むが、思いの深さからくる生き様の表現は不十分な気がする。原康義の龍介も十分な魅力に欠ける。

 現在の斎藤憐には真実へのアプローチの甘さが目立つが、初期の作品はそうではなかった。
 私のいままで観た舞台のベストワンは、自由劇場の「赤目」(1968)で、斎藤憐・作、観世栄夫・演出。その直後の自由劇場「トラストDE」(1969)もすばらしかった。その後ほんとうに印象に残ったのは、自由劇場「上海バンスキング」(1984)だけだ。
 斎藤憐の作劇の歴史は、前衛性から大衆性への流れと言える。「上海バンスキング」は、前衛性と大衆性が共存しうまくバランスした稀有な例だ。大衆性が悪いとはいわないが、このごろはドタバタやくすぐりなど邪道と思えるものが多いような気がする。処女作「赤目」を超える作品は、たぶん現れることはないだろう。

 この舞台は、福岡市民劇場5月例会作品で、27日から6月5日まで11ステージ。きょうの土曜日のマチネーは超満員で立ち見の人も多かった。

(注)文中の( )内の年は、薙野が観た年 です。


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