鵜山仁演出ののびやかさが存分に発揮された舞台だ。
うまくおさまったキャストもそれぞれにのびやかに演じていて、さくら隊での芝居づくりの楽しさが、きびしい戦時下でなされるからこそさらに強く伝わってきて、心豊かにさせてくれる。
1945年5月、移動演劇隊さくら隊の丸山定夫と園井恵子が、先遣隊として広島に来る。そのとき、陸軍などから要請があって、素人を集めて「無法松の一生」を上演するという話。
さくら隊のふたりに加え、アメリカからも日本からも排斥される日系二世のホテル経営者とその妹、ホテル経営者を常時監視する特高刑事、天皇の密命を受け身分を隠して本土決戦が可能かを探る元海軍大将とそれを阻止しようとする陸軍中尉、泊り客の方言学者といったホテルにかかわる人々がが皆、臨時のさくら隊員として動員される。
人物それぞれの立場で染み込んでいる国家や戦争のしがらみを、演劇を作る過程で見つめ表現することで解きほぐし洗い流して、演劇によってみんなひとつになるという、ほとんど手放しの演劇賛歌となっている。
しかし、そのさくら隊もこのわずか2ヶ月と少しあとに、原爆で散ってしまうのだ。
井上ひさしのツボを押さえた戯曲はほんとうにみごとだ。
いくつかの主題をうまく絡める。当時のエピソードなどをふんだんに盛り込み、雰囲気は厚みを増す。例えば、「神宮」という姓は不遜だとして改姓を求められるというエピソードを使うために、役の名前も考えてつけられている。
大切なことのために「乗り越える」こともちゃんとなされる。隠密行動のはずの元海軍大将・長谷川は、さくら隊が公演できるように身分を明かしてまで動く。
だから、「連鎖街の人々」のようには劇中劇がポシャることはないが、しかし、演劇賛美のための上演に向かって、すべてが集約しすぎているのではないかという気はする。はじめに「さくら隊」という「感情」ありきだから、甘い感じで心地いいが、きびしいドラマ性が弱い「演劇エッセー」と感じさせる理由だろう。
そのような戯曲を、演出は、何もかも過不足なく充実させていて実に心地いい。
キャスティングが絶妙で、それぞれの役をみごとに生かしながら、それぞれの場面をみごとに際立たせ、しかも淀むことなくテンポよく進める。
俳優たちは生き生きと演じる。劇中で丸山定夫が、無法松が吉岡未亡人への思いを告白するシーンについて、出演者みんなに意見を求めながら演出を進めていく場面がある。この場面は、俳優の意見を重視しながらまとめ上げていくう鵜山仁の演出法とみごとに重なる。俳優たちが生き生きとしているのは、そのような演出術のためだ。
この舞台は、7日から15日まで11ステージ。3連休の中日のきょうは、若干空席があった。