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《2003.10月−14》

つまらない演出に、受け身の演技
【マンザナ、わが町 (福岡現代劇場)】

作:井上ひさし 演出:猿渡公一
30日(木) 18:30〜20:50 少年文化会館 招待


 この舞台、既存の戯曲にほとんど何も付け加えていない。自らの表現ではなくて、名作戯曲に寄りかかった、ただなぞるだけという習作ばかりを、いつまで続けるつもりなんだろうか。

 第二次世界大戦中のアメリカで、敵性国人として収容所に入れられた日本人の話。
 ひとつ屋根の下に住むことになった5人の女性に、「マンザナ、わが町」という劇を上演するように指示がある。その過程で女性たちの過去が語られるが、その中のひとり・サチコ は、実は中国人で、日本人を文化人類学的に調査する目的で収容所の管理者と結託して潜入し、脚本も彼女が書いたものだった。
 ポイントは、「マンザナ、わが町」を上演するために、リーダー格の ソフィア がさらにきびしい収容所に送られようとするのを、収容所長をみんなで篭絡して阻止するというところ。ただ、そのあたりの戯曲の切れ味はあまりよくない。

 演出は、戯曲の読み解きにおいても、その表現においても、悪しきリアリズムに毒されている。
 戯曲の読み解きとは、人物の意識の流れをきっちりと押さえること。そのためには、戯曲を解体して組み立てなおすなどして、戯曲の構造をきっちりと理解しないと、ほんとうのおもしろさは引き出せない。
 しかしこの演出にはそのような発想はない。外側をそろりそろりと触って、そこから感じたことを叙情的に引き伸ばす。そのようなアプローチにもこの戯曲は耐えはするが、収容所の非人間性の表現が弱いなど、大事なところが抜け落ちてしまった。

 そのようなつまらない演出に対してさえ、演技は受け身だ。言われたとおり動くことを後生大事に守る。
 だから、演技は人物に肉薄せず、その個性が希薄になってしまった。人物の個性からくるそれぞれの思いが繊細に表現されることはない。観念的なセリフは観念的なままに投げ出され、観念的に理解しろと言わんばかり。細部はみごとに捨てられた。
 演技に緩急がない。うまくやれば効果的な浪花節が、全然浪花節になっていない。所長篭絡の話では、はじめに夢想したこともその後語られる実際のことも同じ調子。大事なことばに対する相手役の確認のセリフが、大事なセリフと同じトーンでしゃべられる。そのような字面の演技だからテンポも悪く、プロンプターの声が客席まで届くことになる。

 この舞台は、福岡現代劇場45周年記念公演で、きのうときょうで3ステージ。歴史は長くても、ほんとうに生き生きとした舞台を創る芸術的な積み上げは不十分だ。発想そのものを変えないといけないのかもしれない。
 広い客席に三分の一くらいの入りで、観客には中高年が圧倒的に多い。


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