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《2003.10月−15》

大きなスケールで、見応え十分
【大砲の家 (北九州芸術劇場)】

作:泊篤志 演出:内藤裕敬
31日(金) 19:05〜22:05 北九州芸術劇場・中劇場 3500円


 九州でこのような本格的な舞台が創られたことをまず喜ぶ。
 北九州芸術劇場の第1回プロデュース作品としてものすごく力が入った公演で、スタッフ・キャストは充実し、みごとな装置など、創る側の意気込みが伝わってくる。脚本と演出がそれぞれに互いを拡げあっていてスケールの大きな作品となった。ちょっと気合が入りすぎていて、やや重苦しくなったかなという気はしたが、その重苦しさも含めてとても魅力的な舞台だった。

 長く戦争状態が続くタナヒデとユナベル。そのタナヒデに隣国ユナベルに向けた大砲が設置されている。そんなとき、ユナベルからの亡命者たちが大砲団地に現れ、軍の命令でその大砲を守っている一家のところに住まわされることになる。
 大砲の家の主人夫婦と子ども3人。長男は宗教的予知能力があり、次男は軍人志望。家には奇妙な中年男の居候がいる。亡命者たちは5人。彼らは、理想としたタナヒデで捕虜として強制労働をさせられ、新型爆弾を開発させられる。
 そして、大砲を使えるようにした次男の手で弾丸は発射され、ふたつの国は戦闘状態に入る。

 舞台中央に大砲の砲身。下手2階が一家の住まいで、その下に居候の住まい。上手は亡命者たちの住まいだが、両国が戦闘状態になると彼らは、強制労働以外の時間は床下に幽閉されることになる。
 その舞台装置のなか、オープニングからダイナミックで、濃密な作品の世界に引っぱりこまれる。その舞台は大きくて深い。これぞ演劇の醍醐味というボリュームがある。
 大きな設定のなかで、深い思いを抱えたそれぞれの人物が密にからみあい、過去を引きずりだし未来をたぐり寄せようとするが、現状が露わになるだけで、戦争がすべてを呑みつくす。

 国家、宗教、自由、差別 などの重すぎるほどのテーマを詰め込みすぎるほどに詰め込んだ脚本だ。
 多様な対立項がからみあい、その対立項を担うそれぞれの人物とその変化を見つめることで、舞台は圧倒的な厚みを獲得した。
 長男の利他、次男の利己を繊細に描くことで、宗教の愛の狂気と国家の権力の狂気を対峙させる。その権力の狂気は、隣国の自由に賭けた亡命者の希望をいとも簡単に打ち砕く。
 謎解きが終幕近くに集中するなど、詰め込みすぎてやや生煮えのところもあるし、権力の描き方が弱いとか、爆弾の仕掛けがチャチなどの若干の不満はあるが、そのスケールの大きさで「『小さくつくらない』と心に誓った」という目標は達している。

 演出はそのような対立項を、図式的に見せることをしないのがいい。
 対立項を俳優に徹底的に肉体化させ、その肉体を絡ませあうことで驀進していくことを徹底的に要求していて、それはある程度成功している。このところ自作の演出で力と冴えが足りないという不満を解消してくれたが、他人の脚本だから思い切り膨らませられたということもあるだろう。
 そのために内藤は様々なアプローチを試みていている。思い切った発想でダイナミックに切り込みドッキリさせられる演出も冴えているが、じっくりすべきはじっくりと踏み込んで押さえている。
 それでも飽きたらず、最終的には理性的という内藤演出の枠を一歩踏み越えて、暗く激しい情念を暗いままに激しく噴出させる、というところまでやってのける。大砲の家の妻の役の 近藤結宥花 の属する 新宿梁山泊 の舞台のような、病的とも見える情念的なしつこさにまで至っていたのがおもしろかった。そこまでやっていても、長い作品だから時に停滞気味になるのはしかたがない。

 俳優はよく演出に応えている。
 東京からの 陰山泰、近藤結宥花、大阪からの 荒谷清水、木村基秀 はさすがの演技だ。荒谷清水 は三枚目的な軽さと勢いでその演技の幅を見せつける。
 対する九州の俳優もなかなかいい。白石健一(二番目の庭)と 森光佐(フリー)の役に肉薄する演技は見応えがあったし、寺田剛史、有門正太郎、橋本茜、門司智美 という飛ぶ劇場の俳優たちは一段大きくなったという印象を持った。

 この舞台は、北九州ではきょうから11月2日まで4ステージで、11月7日から9日まで伊丹のAI・HALLで上演される。
 きょうは1階はほぼ満席だった。2階がどうだったのかわからない。


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