大蔵流茂山家の若手狂言師三人が演じる、伝統の現在´1「あの大鴉、さえも」は、狂言師の表現が戯曲に肉薄しきれていないことがわかる舞台だった。期待していた大きさも切れ味もいまひとつで、課題は多い。
演じるのは、茂山正邦、茂山宗彦、茂山逸平。
男三人が、大ガラスを、山田さんの家に運ぶ、という話。
山田さんの家がわからないので騒動。緊張と疲れのなか、山田さんの素性の話は、小さな内輪もめなどを引き起こしながら、三人は山田さんの世界を夢想する。
この戯曲の初演直後の再演を、私は1981年3月に十条銀杏座で観ている。大ガラスを運ぶ木場克巳(現:勝巳)らのガッチリと精緻な演技がいまも目に浮かぶ。
その舞台と比較しているわけではないが、この舞台では狂言師たちの演技の粗さが目についた。そのことが戯曲のしかけをさらけ出してはくれたが、ここは演技の力で、戯曲のしかけたいくつもの世界をかいまみせるまでの表現がほしかった。
舞台一面に路地裏のゴタゴタとした壁。中央のものすごく古ぼけた板戸の上方に「三条」という看板。終盤この装置が分かれて、三人が大ガラスをかついで去っていく草原が姿を現わす。
広い舞台の大きなゴタゴタとした壁の前では、切れのよくない演技のノイズがさらに増幅されたという印象で、なんともすっきりしない。
三人の演技は声も動きも、伝統から離れようとしたため伝統から力を得られず、現代劇の演技の力は弱くて充実しない。動きも狂言の動きを消そうとして消しきれておらず、それが甘さになった。そのような不徹底の結果、三人の過度の疲労からくる妄想は並列に語られるだけで統合されない。
アフターパフォーマンスとして、上演時間2分ほどの「狂言版 あの大鴉、さえも」が演じられるが、言葉のテンポの問題が解決できれば、狂言の伝統の力の寄与に大きくあずかりおもしろいものになったのかもしれない。しかしそれは、この舞台の上演意図からすればないものねだりだろう。
福岡ではきょう1ステージ。1階は8割くらいの入りだった。狂言ファンが多そうだった。