福岡の演技者がいかに鍛えられていないか、それが如実にわかった舞台だった。東京での公演とは、雲泥の差があったのではないかと想像する。
その演技、脚本と演出がカバーしてくれているところはそれなりだが、それぞれの俳優の見せ場が見せ場にならない弱さをみごとに露呈していた。役へのアプローチ方法はおろか、アクションや発声の基本的な訓練の欠如までが、見えすぎるほどに見えてしまった。
国定忠治が処刑されたあと、自堕落な生活の子分たち。そこに、水戸天狗党の残党のひとり・村上長治郎(とまと)が逃れてくる。その長治郎が、国定忠治に生き写しだった。
・・・とくれば、お定まりの身替り譚で、ラストまで大体のことの想像がついてしまう。
それをいかにして観客を引っぱっていくかとなると、芸人一座を登場させ、ダンスに歌に殺陣と、ミュージカル調の東映時代劇でも見ているような趣だが、それはそれでおもしろい。
ただ、何で子分が生き残っているのかとか、代官に寝返る七兵衛(次賀慎一朗)とお甲(実穂)の関係はどうなんだとか、ピストルを持っている代官・戸田弾正(上瀧征宏)が家来が全滅するのを手をこまねいていたりとか、身替り忠治で代官をやっつけられるなら何で忠治が処刑されたのかとか、ワケわからないところも多い。そんなところを細かいことだと気にしなくなるような演技のパワーが必要なところだが、そのパワーがいっこうにない。
その演技、切れに乏しく、幅も出ない。
全体的に、きちんと声が出ておらず、動きも悪い。役の把握と、その強調も不十分で、役の個性は表現されていない。結果、子分たちも、百姓たちも、芸人たちも、個性が非常に弱くなってしまって、マスにしか見えない。生きがいいのは捕り物シーンと太鼓とダンスの一部くらいで、肝心の人物の形象の弱さが致命的だ。そのことが、人物の関係をくっきりとさせず、舞台を平板なものにしてしまった。
村上長治郎の とまと は、百姓に化けた武士がヤクザの親分の身替りになるというところを繊細に演じてはいたが、倒幕の思いが庶民の幸せと一致することに気がつくところなど、志士らしい強さがもう少しあってもいい。でないと、せっかくの死屍累々が生きない。
代官の 上瀧征宏 を見ていると、あまりにありきたりの悪代官で、役を膨らませていないのがよくわかる。
子分では、安五郎の 奥園日微貴 が生きのいい演技で、お甲の 実穂 は押し出しがなかなかで、ふたりとももういっぽん筋がとおればもっとよくなる。
役への取り組みについては、基本を押さえたうえでさらに一歩踏み込んで、観るものの胸に飛び込んでくるような演技がほしい。この舞台にはそのような演技は皆無で、受身の演技に終始していた。
以上のような舞台にもかかわらず、一般入場料4,800円はあまりに高い。
この舞台は、劇団無限塾第1回公演で、20日からきょうまで7ステージ。千秋楽を観た。満席だった。