世界を巡演しているこの劇団は、装置などは簡素だが、舞台づくりのアイディアはたっぷりで、大掛かりにしなくてもここまでやれるという見本のような舞台だった。
じっくりと、ロミオとジュリエットの世界を堪能した。
全ての役を7人で演じる。
だから、主役のふたりも含めて、ひとりがいくつもの役を演じる。そのうえに楽器の演奏や、アカペラでの音楽までやってのける。役も、いかにも大公というJulian Eardleyが、乳母の役をやるという、ちょっと無理があるというのも新鮮でおもしろい。キャピュレット婦人を演じる美人女優・Debble Radcliffeは、若者ベンボーリオを演じて、ほとんど違和感がないどころか、かっこいい。
それにしても、ロミオのMartin Christopherと、ジュリエットのSuzanne Marstonの何とそれらしくないこと。どっちかというと醜おとことブスのとりあわせで、いかにも冴えない。だから、何でこのふたりが雷に撃たれたように恋に落ちるのかちょっと納得しがたいが、まあ恋とはそんなものかもしれない。
それが何としたことか、舞台が進んでいくうちにふたりがだんだんカッコよく見えてくる。観おわれば、ふたりのカッコよさしか残らないというみごとさだ。そう感じさせるまでにきちんと練り上げられているのがわかる。
奇をてらった演出はない。
装置は、舞台中央に2本の柱と間のカーテン、それにいくつかの椅子だけ。仮面をつけた異様な風体の怪人の登場などで、ふたりが覗き見る死の世界を表現したりというのがいちばん演出らしい演出で、あとはどっちかというと、例えば一夜を過ごしたあとの別れがたいふたりの気持ちを表すのに、時計の振り子を棒で表現するなど、卓越したという演出ではなくて、素直でシンプルな演出だが、そのような演出をトコトン積み重ねる。
作品の捉え方はさすが本場で、セリフに込められた状況をみごとに捉えて、それをていねいにフォローする。だからものすごくわかりやすい。
この作品を観る前に、オリビア・ハッセー主演の映画「ロミオとジュリエット」を、松岡和子訳と比べながら見た。戯曲ではさりげなく書かれていても、実は急転直下もあるというセリフの解釈が、見ていてよくわかった。この舞台にもそのような伝統が生きていた。
それにしても、映画の字幕はすごい。松岡訳を印象弱くあるいはとろく感じてしまうところも多かった。
この舞台は、福岡女学院大学短期大学部創立40周年記念行事の一環で、きょう1ステージ。ほぼ満席だった。