この舞台について小田島雄志さんが、「日本のミュージカルのスタンダード」として、「人間が現実に生きていく上で出会う愛や憎しみ、やさしさや残酷さ、助け合いや傷つけあい、喜びや悲しみなどが、さまざまな次元で描かれているのである。それが歌になり踊りになって、ぼくたちの胸にとびこんでくる」と書いている。
小田島さんのこの文章はこの舞台のいい面ばかりを強調しすぎていて、素直に見れば、6年前〔訂正:30年前が正しい〕の作品にしろ日本ミュージカルの限界を感じてしまう舞台だった。
友人にだまされて倒産し、心中にまで追い込まれる一家を、脱獄囚3人が救うという話。
原作はアルベール・ユッソンの戯曲で、1955年に映画化され、1989年にそのリメイク版が作られている。そのいずれも、ユッソンの戯曲が原作であることを明記している。
この舞台のスタッフ連名に原作者ユッソンの名前がないことにふれて小田島さんは、「原作者の名前はどこにも出てこない。彼らの、ユッソンの戯曲から独立したミュージカルだとの心意気を示すものだろう」と書いているが、スタッフの甘ったれに対する何という手前勝手な弁護だろう。1955年の映画をベースにしたからといって、よく知られた魅力的な題名と作品の骨格部分を流用しているのだから、原作者の名前を出さないのは大問題だし、演劇評論家がそれを誉めそやすとは狂っているとしか思えず情けないかぎりだ。
日本ミュージカルといっても、そのように完全オリジナルではないことを割り引いてその実力を評価する必要がある。
それぞれのシーンでは歌もダンスもそれなりに見せるところも多く、まあ楽しめるのだが、どうも後味が悪い。それはストーリーに原因があるようだ。
善人を詐欺で破滅に追い込む悪人を、いとも簡単に殺して(!)しまうことに抵抗があった。全体が野放図な明るさやハチャメチャさに満ちているという荒唐無稽さをねらった作りならば、それも許容されるかもしれない。しかしこの作品はやや湿っぽくて暗く、基本的に生まじめすぎるほどの作りだからこそ、そこに似非ヒューマニズムを感じてしまう。中途半端でちぐはぐな印象になってしまった。
ナンバーは全部で17。「三重唱」など2、3のナンバーは、歌にドラマをはらみ聴かせるが、心情説明のナンバーが多く、代表的なナンバーである「今、今、今」の抽象的な歌詞で気分だけ盛り上げようとする姿勢にはウンザリしてしまった。
ダンスはフォーメーションでの表現はそれなりだが、感動させられるレベルにはまだまだ遠い。
この舞台は福岡市民劇場7月例会作品で、15日から24日まで11ステージ。まだはじまったばかりということもあって、若干空席があった。