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《2004.9月−5》

唐のスタイルに収斂させられない、そんな演出はないのか
【夜壺 (うずめ劇場)】

作:唐十郎 演出:ペーター・ゲスナー
12日(日) 20:05〜22:25 “東田第一高炉跡” 横 野外特設テント 3000円


 テント芝居はワクワクする。このような企画は楽しい。
 わかりやすい舞台だった。唐十郎の戯曲は、作者以外の人が演出したほうがよくわかる。この舞台もその典型だが、そのことがいいのかどうかはわからない。

 不景気で閉鎖されるマネキン工場で働く織江。清掃車からマネキンの手を救い出す清掃局員の有霧。そのお礼に織江は”し瓶”を贈る―そこにはホフマンの「黄金の壺」になぞらえた物語があった。
 加えて、靴屋のための顔のないマネキン・オリンピアがからみ、いくつかの三角関係がからみながら展開する。

 どうしても唐の舞台をこの舞台の背後に見てしまう。この舞台は唐のスタイルを徹底的に意識し、その背後に見える唐のスタイルに収斂する「途上にある」ものだった。
 唐の言葉は唐のスタイルでしか肉体化されないのだろうか。ペーター・ゲスナーのやり方で唐の言葉を解体して再構成してこその演出のはずだが、そのような彼の方法論はどこにあるというのだろう。

 いいことも悪いことも、その「途上にある」ことから来ている。
 徹底的に唐の演技のスタイルをまねる。言葉に肉体が乗ったときはそれらしい迫力があるが、ものすごく波があって白けるシーンもまた多い。俳優の線の細さ、演技の単調さ、押し出しの弱さ。それは役の捉えかたもさることながら、俳優の表出する力が足りないためだ。
 そのことは、比べるものが現れるとよくわかる。東京から客演の伊牟田耕児が舞台に登場すると、舞台の密度が突然に上がる。柔軟で自在なしゃべりと動きで、とらえどころのない人物が強烈にデフォルメされて突然に舞台に現れる。目を離すことができない。

 この舞台がわかりやすかったのは、ハイテンション・ハイテンポの唐の舞台に比べてまだ考える余裕があったからであり、それが「途上にある」ということだろう。
 そのような結果肝心のところが突き抜けず、マネキンはつっけんどんなままで人間に巻きこまれることはない。

 この舞台は5日から12日まで8ステージの予定が、台風で7日と8日を休演し結局6ステージ。千秋楽を観た。満席だった。
 この舞台は、9月20日〜30日に開催されるカイロ実験演劇国際フェスティバルに参加し、11月には東京で公演される。


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