この戯曲は、徹底的にリアルにやらないと瑞々しさにまで至らないという構造で書かれている。そのリアルが中途半端なために、凡庸な舞台となってしまった。
長崎水害で両親を失った兄弟妹の三人の、その水害から5年後の話。
兄が恋人を連れてくる。しかし別れ。弟は予備校をやめて料理人になろうとする。お盆に大阪の伯父がやってくる。そして・・・。
ストーリーを書いても、ほとんど何も伝わらない。この戯曲は、そこにあるものを徹底的に見つめ続け、それを象徴的に描写する。日常のなかにある喜びや哀しみ。人々のそのような生活のいとおしさを通して、背後の水害や原爆さらには宇宙までを感じさせる。
人の心の襞に溜まったものが顕われるのは、日常と見せかけながら実は日常性を超えた世界で、それこそがリアルと言われる世界だ。静謐で緊張に満ちた舞台から硬質で奥深い世界を感じ取るというのが、この作品を観る醍醐味だろう。
そのような期待とは裏腹にこの舞台は、表面を取り繕うべく形ばかりが先走りする。
例えば兄が恋人を連れてくるシーン。その思いが入り組んでややぎこちないというシーンを、演出は意図的に動作や表情という形を強調する。そのような作為が過ぎて不自然になってしまう。それぞれの人物の繊細な思い=本来伝わるべき情報量が抜け落ちてしまった。そのようなところがきちんとなされているならば、人物ももっと生き生きして個性も出てきたはずだ。
そのような結果どうなったかというと、クライマックスのために他の部分があるという舞台になってしまった。これでは戯曲の魅力が十分には引き出されない。
この舞台は今年杷木町で初演。今回の上演は、福岡できょうとあすの3ステージで、19日には北九州での公演がある。満席だった。