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《2004.9月−9》

フィリピンの現実に、アンデルセンは耐えられたか
【ハンス・クリスチャン・アンデルセンはフィリピン人に違いない! (フィリピン教育演劇協会PETA)】

脚本:レネ・ヴィラヌエバ 演出:マリベル・レガルダ
23日(木・祝) 14:35〜16:40 イムズホール 招待券


*** 推 敲 中 ***

 よくできた脚本だ。  アンデルセンの童話の主人公をフィリピンに置くことで、フィリピンの現実を照射する物語に変わる。それに対して原作を守ろうとするアンデルセン。
 子ども向けながらそのような構成上のアイディアを含め手抜きせず斬新だった。そして、子どもには重すぎる現実が山ほど詰まっていて、息苦しささえ感じさせる舞台だった。

 アンデルセンの童話の主人公、おやゆび姫、すずの兵隊、マッチ売りの少女の3人がフィリピンに行って、そのきびしい現実を反映した話に変えてしまう。
 おやゆび姫の王子様代わりはゴミ拾いの少年。貧しさから麻薬の運び屋までする。
 すずの兵隊はイスラム教徒でテロリスト狩りの対象とされる。兵隊が恋するバレリーナにあるのは生きていくことのやるせなさだけ。
 マッチ売りの少女の仲間は路上でシンナーに溺れ、春までをひさぐ。マッチを点しても夢は現れない。
 アンデルセンは、このような愛も家族もない子どもたちといっしょに傷つく主人公たちに対しても、かれらの運命は自分だけのものではないとして、物語を変えることを許さないのだが・・・。

 重すぎるテーマが、直裁に語られる。
 抽象的な説明調のややくどいことばが多いところを、ミュージカルで厳しさを中和し、語り口の自然さとでシンプルな舞台で重さにヴェールをかける。それでも現実の厳しさは伝わりすぎるほどだ。
 すずの兵隊のバレリーナになぞらえられるイスラム教徒の少女にとっての、宗教対立やテロリズムという、パックリと口を開けているどうしようもない現実にぞっとさせられる。「寂しさ」を感じる余裕などなくて、知っているのは「やるせなさ」だけという、その「やるせなさ」が伝わってくる。

 アイディアは、詰め込みすぎるほどだ。
 ふたりのアンデルセンを登場させたり、着ぐるみや「いつもここから」のツッコミ暴走族のようなハンドルだけのバイクを使ったり。装置代わりに縦長のスクリーンへの映写で場面転換を意識させない。俳優の動きは、柔軟で素直で無理がない。
 ただ内容も含めてちょっと詰め込みすぎかなという気はした。ラスト近く、運命を受け容れ死神に我が子を捧げようとする母。そこで「はだかの王様」の少年が、「作家ははだかだ」と叫ぶ。母は、運命を受け容れることから生きて変わっていくことを選ぶ。そのあたりちょっとついていけなかった。

 そこには、アンデルセンを尊敬しながらも批判せざるを得ないという気持ちが、まだ整理されないままに投げ出されたという印象を受けた。先進国にあこがれながら批判もあり、素直に受け容れられない屈折した心情が見えた。
 アンデルセンを主体に考えてみれば、単純に否定されてばかりはおらず、フィリピンの現実に照射し返されて崩壊するばかりではなくて広がるところもあるという、アンデルセンの童話の深さもまた表現していた。

 1時間50分の公演のあと、演出のマリベル・レガルダさんなどによるポストトークが45分。そのなかで、子どもたちとのワークショップで日本の子どもに特有なのは男女に壁があることというマリベルさんの言葉が気になった。
 この舞台は大人向けの一般公開はきょう1ステージだけ。市政だよりの一面全部を使った記事などあったにもかかわらず観客は少なく、7割くらいの入りだった。


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