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《2004.10月−6》

この舞台が俳優座作品?という違和感
【きょうの雨 あしたの風 (俳優座)】

原作:藤沢周平 脚本:吉永仁郎 演出:安川修一
9日(土) 13:35〜15:55 ももちパレス 3100円


 この舞台が俳優座以外の劇団によるものだったら、何のわだかまりもなく褒めることができる。描かれた世界では、人情の機微をていねいにとらえて庶民の生活のなかの哀歓をたっぷりと見せて楽しめるし、そのことは評価もできる。
 だが、徹底的に知的な舞台をめざした俳優座が、このような人情の世界に安住の場所を見つけたとすれば、かっての伝統はどうなってしまうのか。それなりにおもしろくて、それを俳優たちが楽しそうに演じていればいるほど、心の底からわびしさがこみあげてきた。
 俳優座は、こんな舞台に到達するために存在したのか? これが到達点でなくてめざしてきたものの途上にあるものだとしても、これからどこに行こうというのか。

 舞台は天保のころ、江戸深川の裏長屋。
 夫に逃げられ母を抱えてこの長屋に来た若い おしず は、一膳めし屋で働いて生計を支えており、弟・栄次の賭場通いに悩んでいる。
 夫を亡くした中年女の おとき は、内職をいながらひっそりと暮している。
 左官の六助一家では、酔うと知らない人を連れてきて泊まらせるという六助の変な癖に、女房の およね は困っている。きょうも六助が おはな という老婆を連れて帰ってきた。

 弟・栄次の賭場での借金のかたに女郎になることを強要される おしず。そのことが開演後20分ではっきりし、その窮地をどう解決していくのか―というのがメインの問題。そしてあと、六助のところに来た老婆はいったい何者なのか。おとき が助けていっしょに住むようになった若い男・幸太と おとき はどうなるのか。
 そのような3つの話をからませながら関心をひきつけていく吉永仁郎の作劇術は、ここではいかにも大衆演劇だ。人間のやさしさばかりを強調し、突き放したきびしさは影をひそめている。
 演出や演技では、きびしくリアルにやって大衆演劇臭を薄めようとする姿勢も少し見えはするが、どっちかというと甘さや不自然さやくすぐりを容認していて、それに流れているところが多い。情緒的に引っぱる演技や、大家が跳びあがったら店子たちも小さく跳びあがるというような吉本ばりのくすぐり。それをやらせる演出も演出だが、それを役者がいかにも気持ちよく演っていると見えたのは悲しい。新劇の矜持はどこに行ってしまったのか。千田是也や東野英二郎が泣いてはいまいか。

 このような感想をもつのは、私の懐古趣味なのだろうか。そうは思わない。
 劇団の理念を百年一日のごとく後生大事に守っていくべきだと言っているのではない。理念は常時新しい表現によって変革されねばならないが、内部からの変革が非常に弱い。それが新劇衰退の理由だ。俳優座はそれを外部の作家に求めたが、岡部耕大の戯曲の上演あたりまではまだ理念があった。いま、大衆演劇をこんなに質高く作れます!と言われたところで、それが何なの?失っているもののほうが多いんじゃないの?というしかない。
 ひょっとしてこの舞台、高齢化し保守化した演劇鑑賞団体向けにと考えて作られた口あたりのいい舞台なのではないか。そうは思いたくないが。あるいは、やはり高齢化してしまった俳優座の観客に合わせたものなのか。

 この舞台は福岡市民劇場10月例会作品で、8日から17日まで11ステージ。満席だった。


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