ものすごくメリハリがあってしかもスッキリした表現なのに、何ともいえない雰囲気がある舞台なのだ。その不可思議な気分に魅了されてしまう。
漱石の原作が、決断しないことの自由さを中心に据えてアンニュイなのに比べて、この舞台では、それもひとつとしてのあり方と相対化していていくつかのありようを並存させ、それらの間を渡り歩く。それらのありようの鮮やかなコントラストは却ってそれぞれを鮮烈に印象づける。
この舞台は昨年についで2度目だが、じっくりと観られて今回のほうが圧倒的におもしろかった。
新婚の津田は、妻の延子とのあいだに微妙なズレ。
それは互いの家族との関係(それもお金がらみ)や、津田を可愛がる吉川夫人との関係が影を落としている。そんな折り津田は痔の手術で入院して不安定さは増幅する。
そこで、いちばん気になっていた前の恋人・清子に振られた原因を問うために、術後の療養にかこつけて、清子の逗留する温泉に行くことにする。それは吉川夫人の差し金に津田が乗ってしまった結果であった。
キーワードは「偶然」。
「偶然」は、複雑すぎる原因があるところに意思が働いたために起こる、などという議論がはじめにあって、それは清子の心変わりが「偶然」か―という遠いターゲットが設定される。イチローがインタビューで、「飛んだコースがよかった、と偶然に見えるヒットのなかにも必然がある」と言っている。
そんな茫洋としたキーワードが象徴するように、舞台は何とも不思議な雰囲気なのだ。現代に設定されているが現代ではない。ブルジョア論議などとても現代とは思えない設定があり、人物も現代ばなれしている。だからといって、漱石の小説が書かれた大正時代でもない。そんな何ともいえない雰囲気を、特に津田役の佐々木蔵之介がうまく出している。
永井愛の脚本の、そのセリフをしゃべることで、俳優の心に強い感情がひき起こされて、それが切れのいい演技を生み出している。やや日常性を欠くことばを重ねて、普段使わない精神領域までをかき混ぜるといった印象だ。
そのセリフ術は、概念的なことばを並べた長ゼリフと見えるのに、続くセリフの重ねかたが、前のセリフを更に強めたり、前のセリフのイメージをスーッとずらしたり、前のセリフをひっくり返したりと、みごとなまでのレトリックが駆使される。その結果ダイナミックに引っ掻き回されて、表面を引っ剥がして別のものが突然に顕われ、広い感情がひき起こされることになる。
そのようなやり方で、漱石のアンニュイよりも広いところを提示しそれをねじ上げ、漱石なら絶対こうはならないだろうという結末に至っている。津田と清子の”対決”の二転三転ぶりには、もう興奮させられてしまう。
俳優は魅力的だ。山本郁子、小山萌子はそれぞれ、2、3人のまったく違う人物を演じるが、とても同じ人が演じているとは思えない幅だ。そのあたりのキャスティングの妙でも見せる。
舞台の上にしつらえた回り舞台を使ってスムーズな場面転換。気持ちのいいテンポだ。
この舞台はきょう1ステージ。若干空席があった。