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《2004.10月−15》

はじけない
【ぴらんでっろ (黒テント)】

作:ルイージ・ピランデッロ 演出:斎藤晴彦
30日(土) 15:00〜17:20 西鉄ホール 招待


 せっかくのピランデッロの名作の上演だが、期待したようにははじけない。
 演出の弱さもさることながら、俳優に問題が多い。セリフを肉体化できず、この戯曲の持つ力を引き出せておらず、喜劇になっていない。

 芝居の稽古の最中の劇場にやってきたのは、作者に見捨てられた6人の家族。
 家族は、自分のドラマを作ってほしいと言って、自らを語り始める。家族の秘密が明らかになり、それを実際に俳優に演じさせようとするのだが・・・。

 原作戯曲はピランデッロの「作者を探す六人の登場人物」。はじめに出てくる稽古中の戯曲が、ピランデッロ作の「役割競技」からギリシア悲劇の「オイディプス」に変えられていることを除いては、原作戯曲に忠実な上演だ。
 現実とも幻想ともつかない登場人物。その人物が俳優によって舞台で演じられたとたんに、モデルとは似ても似つかない物になる。ピランデッロの「懐疑と不信」が提示している問題は、大きくて根源的で普遍的だ。「演劇とは何か?」も問いかける。

 開幕から家族の登場までの15分ほどが「オイディプス」の稽古。あとで現実との対比を意識してわざと古臭くしたことを考えても、何と冴えない舞台だろう。これがそれなりに魅力ある舞台でないと、現実との対峙のしようがない。
 6人の家族のうち父と継娘は自分の思いを舞台に乗せることを全面的に主張し、マダム・パーチェの店(売春宿を兼ねる)での父子(継父継子だが)相姦という現実をさえ明らかにする。
 そのシーンを家族から引き取って演じる男優と女優。そのあまりの陳腐さ! 確かに結果としてはそれが目的だが、こうハードルを低く設定されたんじゃ何の面白みもない。1920年代のイタリアでもそんなバカバカしい演技をしていたとは思えないが、そんな大仰な身振りのなかにも、無理やりでも見せるものはあろう。それを考えないから演劇が不戦敗にしか見えないのだ。ましてやここは21世紀の日本。新劇調、アングラ調、静かな演劇調で演じ分けてもよかった。そのくらい考えて、テーマを際立たせてほしかった。

 大きな構成、内容から一つ一つのセリフにいたるまで、仕掛けだらけの原作戯曲だから、それをていねいにフォローするだけでも大変だ。だから若干甘いのは勘弁してよぉ―と言っているように見えた。それにしても演出も演技も、戯曲を追っかけるので手一杯で、そこにほとんど何も付け加えてはいない。黒テントらしい切れは、なかなか顕われない。
 演出は、対立するものの落差をきちんと描けないため、それぞれのシーンを引き立てることもなく平板な舞台になった。作者自身が戯曲の序文でこの作品を理解するための情報を提供しているが、それを膨らますこともなく、弱々しくなぞっただけという演出だ。
 演技も弱い。みんなどうしてこうも一本調子なんだろう。切れも悪くメリハリも弱い。 ちゃんと見せるのは、座長・演出家役の小篠一成とマダム・パーチェ役の岩井ひとみくらいだ。岩井ひとみの梅垣義明ばりの迫力は楽しめた。しかし全般的には、重いことばを俳優が肉体化できず、口先だけでしゃべられるから響いてこない。それができていれば、この戯曲の豊穣さが十分に舞台に顕われたはずだ。

 この舞台は福岡ではきょう1ステージ。かなり空席があった。


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