松田正隆の戯曲のなかで、リアルななかに強い叙情性を湛えた作品群をオーソドックスな松田戯曲だとすれば、「天草記」や、この「帰郷」は、松田戯曲の流れに沿わないもののように見える(いま上演中の平田オリザ演出「天の煙」も、そのようなオーソドックスから離れた戯曲のようではあるが)。
オーソドックスな戯曲では、実際に存在するものの手触りをいとおしむように表出させるのに比べて、「天草記」では場所があいまいで状況もリアルではなかったし、この「帰郷」ではさらに何もかもがあいまいで何を信じていいのかわからない。
だが、リアルでないところ=存在しないものから立ち現われて、それが現実に結晶することもある―そういう形でしか書けないものを書いた、これもまたリアルにこだわるからこそ書ける松田戯曲だということだろう。
昼のない町に帰ってきた男。
そこには、出征した兵士の身代わりの人形を作っている弟とメイド。隣には兄の婚約者に似ているという未亡人。
街では市街戦。それで死んだ兵士の身代わりとして、人形たちが運ばれていく。
ここでは、状況のリアルさは無視される。
弟はそう呼んでいるだけで弟なのどうかわからない。兄は何回目の帰郷なのかもわからない。帰ってきた目的物が存在するのか・そのために何を持ってきたのかさえも定かではない。それどころかここがほんとうの故郷なのかさえもわからない。
それらの状況は、リアルだが矛盾するセリフが、互いを否定しあった結果で作り出される。
そんな状況を裏返して、存在しないものの側から眺めると、存在するということのいとおしさが見えてくる。
宙をさまよう思いが触れ合い結晶して存在に変わる。ならば、だれと触れ合ってもいいし、そのようにして生まれた世界こそが故郷なのだと思えてくる。
ただ、その世界は奇矯だ。
人形をめぐるねじれ。過去の帰郷で持ち帰ったたくさんのカバンのことを兄は知らないというズレ。人のふれあいは乾いていてねじれていたりずれていたりばかり。でいながら、その世界は濃密なのだ。
その世界では関係がちょうど迷路のように入り込んでせめぎあっている。
ひとつのものが表と裏でまったく違う様相を見せ、ふたつのものが対になったり対立したり、変遷していく。迷路はゆがみながらうごめく。
そこにはおびただしい文脈が存在し、それらが却って喪失感を激しく際立たせる。
この戯曲の構造をこう見た。「天草記」が展開しパワーを解放したのに比べて、この「帰郷」は密度高くパワーを封じ込めた。
そのような戯曲を演出は十分には表現しきっていない。
文脈のなかに分け入って解体し再構成して、ひとつのセリフの多様性・多義性を定着するところまで行っていない。調和を捨てきれない演出のために、変わる状況に追随できず、グロテスクさも中途半端で、舞台を単調にしてしまっていた。
この舞台は福岡では1ステージ。空席が多かった。
あぁこの舞台、感想をまとめるのが大変で、頭が熱を持ってしまった。的外れでもいいか・・・。