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《2005.7月−1》

我を忘れる瞬間が、あった
【HEDWIG AND THE ANGRY INCH (パルコ)】

作:ジョン・キャメロン・ミッチェル 演出:青井陽治
1日(金) 19:40〜21:45 ZEPP FUKUOKA 8000円


 愛の哀しさ切なさが激しく迫ってきて、それに呑みこまれてしまうという舞台だ。
 その愛は、「おとこおんな」と「男」との、どうしようもないほどの激しい愛。求める「カタワレ」がやや変則的なうえに、「股間に残った怒りの1インチ(アグリーインチ)」という割り切れなさが加わる。そんな生き様の危うさを通して、求めずにはおれない愛を描ききっている。
 そのようなみごとな仕掛けと三上博史の自在な演技に、舞台のヘドウィグとともに生き、ヘドウィグが乗り移ったのではないかと思える瞬間があったほどだ。

 東ベルリン生まれのヘドウィグは、自由を得るために米兵と結婚しようと性転換手術を受けるが、手術ミスで1インチが残ってしまう。
 それでもなんとか渡米をはたしたヘドウィグは、離婚し、ロックバンドを組む。17歳のトミーに出会い愛情を注ぐが、ヘドウィグの曲を盗んでトミーはロックスターになってしまう。
 そのトミーを追いかけ、スタジアム脇の冴えない会場で巡業するヘドウィグ。舞台は、そのコンサート会場。

 ヘドウィグが語り歌うという、実質的な一人芝居。
 趣味のよくないハデハデ衣裳に長い白毛のカツラ。メイクもどぎつく、いかにも三流アーチストのヘドウィグ。楚々としたところなどなく、派手なアクションも骨太。けたたましくほとばしる思いは、時には客への悪態となり、時には内にこもる。振幅の激しい心の動きにあわせたナンバーも楽しめる。背後に映される映像が、そのような激しさを強めたりなだめたり。
 背後のドアを開けると、スタジアムのライトが強く差し込み、トミーのトークが流れてくる。

 三上博史の演技の、なんという懐の深さだろう。
 シチュエーションの設定もみごとだが、それをヘドウィグのコンサートでリアルタイムにここまで見せるについては、俳優の魅力が圧倒的に大きい。
 三上の演技が懐の深さを感じさせるのは、演出による読み取りの深さ・的確さに加えて、それをトコトン理解し膨らませて表出させることができる演技の力によっている。
 演出は、ヘドウィグの心の深みを必死に見つめ、それを細部まで緻密に積み上げている。ヘドウィグの感情の振幅は大きく、しかもその緩急は激しく、一瞬にして別の感情に移るが、それが不自然どころか逆にインパクトになる。観客の心理状態の読みも含めて、そういうところまできっちりととらえられている。
 演技は、計算しつくされている。だから、ターボがかかったように激しく表出されても、印象は強まるだけで拡散することはない。歓び・哀しみ、渇望・絶望、男らしさ・女らしさ、成功・挫折などの表現は、心に激しく突き刺さる。
 すごいのは、そのような要素を楽しさで包んで、一流のエンターテインメントとしていることだ。この舞台の客であると同時にヘドウィグのコンサートの客でもあるという二重写しが絶妙にバランスして、観る楽しみを増幅させるなど、うまい工夫が施されている。デミセミクェーバーの演奏は当然に本格的で、三上の歌も聴かせる。

 我を忘れる瞬間があった。それも静かなシーンで。その瞬間、闇の底に引き込まれるような耐えられない寂寥感に満たされた。「カタワレ」トミーを求めるヘドウィグの一途な気持ちが、確かに自分のなかにもあった。

 この舞台は、きょうとあす2ステージ。ZEPP FUKUOKA には初めて行った。700ほどの客席は満席で、若い女性が大部分だった。


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