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《2005.7月−4》

完成度をぶち壊す、アンサンブル
【東京物語 (ピクニック)】

作:竹内銃一郎 演出:泊篤志
8日(金) 19:00〜20:35 イムズホール 3360円


 竹内銃一郎の、いかにも硬質で乾いているという戯曲のことばに水をかけて、やわらかくして瑞々しさを引き出したというところはよかったが、水をかけすぎて少しふやけたところもあった。
 とまとママと大塚ムネトは役によく肉薄していて、人物ふたりの個性をよく引き出していて楽しめた。しっとりとした風情の映画「東京物語」をていねいに語ることで、その奇抜な展開を現実性に繋ぎとめる効果を出していて、納得させられる。
 そのようなせっかくの完成度を、アンサンブルがぶち壊しているところがあって、全体的には雑駁さを感じてしまった。

 刑務所で同房の、オリーブと呼ばれるオカマ(とまと)と、ブレーキと呼ばれる革命家(大塚ムネト)。
 映画「東京物語」の話をこと細かに話すオリーブ、聴くブレーキ。ふたりは脱獄し、逃亡中も「東京物語」の話は続く。

 ふたりの演技は、戯曲のセリフを生き生きと蘇らせていて、引き込まれる。
 心の動きをていねいに追いかけていて、その表現も優しくて豪胆ときに奇矯と幅広い。
 オリーブという名前にみあったとまとの愛くるしさ。ブレーキへの思いを込めての映画の語りは、それぞれのシーンをあざやかに蘇らせてくれる。ブレーキの、革命への一途な思いとオリーブへの思いの板ばさみを、豪胆さを表に出しながらたっぷりの優しさをもって表す大塚ムネトの演技は、この人物をよく形象化している。
 ショーやコントでないとまとママと、かぶりものでない大塚ムネトの、俳優としての地力を見せつける。そこがねらいだろうこの企画としては、選んできた戯曲をきちんと膨らませていて、その点では成功している。

 そのようにせっかく作り上げたものを、アンサンブルがわざわざ壊していく。逆効果になってしまった。
 何のためのアンサンブルだろう。エンターテインメント性を高めるのがねらいとしても、ふたりの演技にはすでに十分エンターテインメント性があり、その必要があるとは思えない。それも、本編ときっちりと絡んで統一性が保てているならまだしも、練り上げのあまりの不足のためどうしようもなく粗っぽくて、盛り込まれた男女交替劇などのアイディアも不発で、ふたりの演技の完成度との大きなギャップが顕わになってしまった。竹内戯曲に重要な完成度をないがしろにする演出の手抜きに、うんざりしてしまった。

 竹内戯曲は内発する力の強さが特徴で、それがガッチリとした構成で剛毅に表されている。
 この演出はそういう面を大きく捉えていくという演出ではなかったことに若干の不満が残る。ふたりの演技が象徴するものが、さらにクッキリと立体的に見えてもよかった。それそれの場も、もっと際立ちせめぎあってもよかった。映画「東京物語」のドラマトゥルギーと舞台「東京物語」のそれとの、その個性の違いがもっと強烈に対比され、さらにその底に通い合うものがもっと伝わってもよかった。竹内戯曲へのアプローチの結果には、内在する力を込めた様式的とも見える演技にまで至ってもいいのではないか。

 この舞台は6日から10日まで6ステージ。かなり空席があった。それもいちばん見やすい席が空席とは、どうなっているんだろう。


― Tさんから、感想をお送りいただきましたので、掲載させていただきます。ありがとうございました。 ―

 竹内銃一郎の戯曲は、「蜘蛛女のキス」を想像させるもので、アナーキズムな世界観と現代人の孤独感をあぶりだしたもの、のように感じました。
 刑務所の中、おかまと革命家というシチュエーション。そこに小津安二郎の作品世界(戦後日本が核家族化していく社会変化の中で、孤独と向き合う主人公たちを静かに描いています)を対比させています。
 性の倒錯者(おかまは、もはや市民権を得ていますが)と、社会的倒錯者(革命家をうまく比喩できませんが、社会の現実的な変革者ではなく、何か勘違いしているような人と言う意味で)の孤独と愛が、夢と現実が、二人だけの世界で物語られます。

 その世界の対比が、作品から感じられなかったのは、泊演出の責任です。薙野さんが指摘するように、無意味なアンサンブルの出現で、とまとのセリフからイメージしかけていたものが切断されてしまう。また、二人の演技にも、演出家がこの作品をどう読み取っているか、解釈の違いを感じてしまいました。

 福岡で、劇団を超えてプロデュースされる今回のような試みは、もっと必要です。しかし、アプローチが違うような気がします。
 それぞれが持っているオリジナリティある独自の世界を深め広げて行くことが、もっと行われるべきでは。あんみつ姫やギンギラ太陽’Sは、そのオリジナル性で、いかにも「博多らしい」気がします。
 福岡で、産まれ、育つ、演劇の可能性に期待をいっぱい持っている人間にとって、今回の舞台は、物足りなかった。というより、戯曲の選択ミスのような気がします。

 ロビーを幟で飾って、作品のまわりから盛り上げていたピクニックの堀さんには頭が下がりますが、他の演劇人や関係者から花の一つも届いていないのは、関心の薄さでしょうか。どこも自分たちの活動で精一杯の現状の反映ではあるでしょうが。

 長くなりました。十分に表現できていないのですが。このへんで。


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