福岡演劇の今トップへ 月インデックスへ 前ページへ 次ページへ


《2005.8月−7》

圧倒的な、ボリューム
【弟の戦争 (うりんこ)】

原作:ロバート・ウェストール 脚本・演出:鐘下辰男
25日(木) 18:35〜20:45 福岡市民会館・大ホール 招待


 観終わったあと、その内容の重さに耐えかねて、頭はボ〜ッとなり、肩はこるという舞台だ。
 激しく掘り起こされたものが勢いをつけて、ドサドサと押し寄せてくる、その圧倒的なボリューム。それが心のなかに定着するには、少し時間がかかりそうだ。

 弟は、異常なまでに心の優しい子どもで、遠くの人と交信する不思議な力を持っていた。ある日突然、時々「向こう側」へ行って、少年兵ラティーフになるようになった弟。
 「向こう側」では戦争が始まった。弟の身体は「こちら側」にありながら、心は戦場を生きていた。精神病院で、バリケードを作って戦う弟。そしてラティーフの戦死。

 原作の、戦争を捉える視点が斬新だ。
 戦後60周年のことしの夏、戦争を描いた舞台作品が全国で多く上演されていた。だがそれは、過去の戦争を描いて反省しようというものばかり。それはそれで大事なことには違いないが、舞台化されたものが舞台として十分におもしろいというものは多くない。
 それも、戦争を語るのは生き残った人で、いちばん厳しかったであろう死んでいった人の経験は語れない。生き残った人の厳しい経験も、その恐怖を体感することはむずかしい。
 かたや、現代の戦争は、メディアの発達で、切実感のないショーかゲームのように扱われ、それに疑問を感じない。そこでは、戦争の下での恐怖を体感できるはずもなく、そこにいる人々のことには思いが及ばない。
 そのような状況に風穴を開けているこの原作は、戦争の下の恐怖に迫る仕掛けで、戦争の下の恐怖を如実に感じさせ、それが決して他人事ではないことまでをわからせてくれる。

 そのような原作の戦争の捉えかたは、脚本から類推したのだが、脚本は、ていねいというよりも、これでもかとばかりしつこくその状況を描こうとする。
 他人の痛みに異常なまでに敏感な弟。それがついには、イラクの少年兵の痛みをほんとうに共有するまでになってしまう。イギリスとイラクという、ふたつの世界に生きる弟。彼がイラク戦争に捕われてしまっただけでもそのどうしようもなさがつらいのに、戦争の下で戦う少年兵ラティーフそのものになってしまう。
 ラティーフとなった弟を通して、戦争の下の恐怖が伝わり、それを体感する。そして、ラティーフの死。弟は、やっとこちら側に戻ってくる。
 ラティーフを生きる弟を見ていてわたしも、ようやく他人の恐怖に思いが及ぶ。そして、なぜそんなところまで人間を追いつめなければならないのか?誰にそんな権利があるのか?と考える。
 そして、そんな権利は誰にもないのだ、と思い至る。

 金属パイプを組み合わせた、三階建ての装置が3個。それが開けば、家庭というこちら側の世界。閉じれば、戦場であり精神病院。
 俳優たちはそのパイプのあいだを走り回り、登り、飛び降り、擬闘する。金属に当たる研削機などの重機の、耳をつんざく音量。戦場の恐怖と絶望、精神病院のやりきれなさが迫る。
 そしてラスト。10年後、精神病院にいるのは、弟の戦争を繰り返し繰り返し語りつづける兄。スーッと遠目にして、サッと裏返す。原作にはないこのシーン、鮮やかだ。

 この舞台はきょう1ステージ。600人くらいの観客だった。


福岡演劇の今トップへ 月インデックスへ 前ページへ 次ページへ