長崎と熊本の2劇団の合同公演で、1時間強の舞台の2本立て。その2本とも、おもしろさにビックリする。
2本とも太宰治が戦後すぐの津軽を舞台に書いた、きびしい時代を生きる人たちの生き様と社会のかかわりを鋭く見つめた戯曲。
その戯曲のはらわたをつかみ出して投げつけでもしたかのように、舞台に鮮烈に血しぶきがしたたる、そんな舞台だった。
同じ舞台装置を使って2作品ともに、太宰が描いた人間のいやな面を活写した戯曲を、揺さぶり引っ掻き回しつかみ出して、激しくたたみかけてくる。
そのみごとなまでのテンポのよさで、1時間強の舞台とは思えないほどに内容は豊か。舞台でまさに火花が散っているという印象さえあった。
「冬の花火」〔演出:福田修志(F's Company)〕
津軽で女学校を終えて専門学校に進学するために上京し、作家とくっついて勘当された女が、3歳の娘を連れて10年ぶりに津軽に戻ってきた。
作家である夫は出征しているが3年も音信不通で、女には東京に愛人がいる。後妻である継母は、今も女を溺愛する。そこに女の幼馴染の男が現れて、女に結婚を迫る。
はじめの15分で、前提となっている状況はキッチリとわかる。演出はそれを、説明にはならずに芝居の進展の中でみごとに見せる。
それから状況は二転三転していくが、その半端ではない変わり方も実に手際よく表現していて、身につまされる状況が強く迫ってくる。
ネコを登場させたり、俳優に別の裏役を演じさせたりと、単調にならない工夫も、過剰にならないように見計らいながら、うまくなされている。
女と継母をレズっぽいところまで濃密に描くから、ラストのどんでん返しがみごとに決まる。女の心情のみならず、その身体状況までが伝わってくる。
骨太な脚本を書く福田修志がここでは、戯曲と俳優の力をみごとに引っぱりだした演出で、その力を存分に発揮していた。
「春の枯葉」〔演出:河野ミチユキ(ゼロソー)〕
婿養子で国民学校の先生である男。男は同僚の教師とその妹を自宅に下宿させ、その妹と関係する。
その妹は男に金をくれるという。男は妻が同僚の教師と浮気することを望み、妻もその気になるのだが・・・。
演出は、この作品をいちど解体して再構築することで、この戯曲のもっている激しさをみごとに引っぱりだしてみせた。
ほとんどバクロ大会といってもいいような展開だが、それがリアリティを持つのは、戦後すぐの空疎にもみえる「生」の空虚さを感じさせてくれるからだろう。
ドンとさらけ出してみせたそれぞれの人の思いの、そのベクトルの違いをうまく表していて、それが時代の苦悩を照射する。
個別に見れば不自然なシーンがあるが、それを全体としてうまくおさめようとしておさまらないレトリックの破綻が、この舞台の表現のエネルギーになっている。
破滅していく男の不倫と、不倫して自ら命を断った同僚教師の母親を重ねあわされてくるとか、やや未整理なまま放り出されていたものが繋がっていく。
それが繋がるときエネルギーが生まれ、繋がったものが別のベクトルを持って、作り上げた状況を破壊し再構築する。そのことを繰り返して、猥雑な力を生み出していた。
その力を舞台に噴出させる演出の力には、目をみはらせるものがある。
合同公演で俳優起用の幅が広がったためもあろう、俳優はみな適役で、その演技は安定しているが挑戦的で、ヒリヒリと迫ってくるような演技だった。
この公演は長崎では、きのうときょうで2ステージ。かなり空席があった。9月には宮崎で公演がある。