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《2010.9月−16》

直裁的な表現の先にあるもの
【Another Sleepy Dusty Delta Day またもけだるい灰色のデルタデー (ヤン・ファーブル)】

テキスト・演出:ヤン・ファーブル
23日(木) 15:00〜16:10 アイ・ホール(伊丹) 3000円


 ダンスには違いないが、ダンスの領域を超えたパフォーマンスで、その思いもかけぬような構成と振付に度肝を抜かれた。
 激しい思いがダンサーの身体から噴出する、その痛々しいまでの迫力に圧倒された。

 ボビー・ジェントリーの1967年のヒット曲「ビリー・ジョーの歌」が題材。
 思春期の娘が、家族と夕食の食卓についている。そこで、ビリー・ジョーが橋から身を投げて自殺したと母親が話す。
 題名は、この歌のリフレイン部分から取られている。

 この作品は、2008年にヤン・ファーブルが、クロアチア人パフォーマー・イヴァナ・ヨゼクのために創作した作品を、今回、若いギリシア人ダンサー・アルテミス・スタヴリディと再構築したもの。

 ロッキングチェアーで手紙を読む、若い女性ダンサー。
 床には、海の上の島のように置かれた石炭のかたまりが7つ。うち5つには小さなレールが敷かれ、灯りをつけた電車の模型がグルグル回っている。
 天井からは、カナリアが入った9つの鳥かごが吊るされている。

 ダンサーは、ト書きを読み、手紙を読み、歌を歌って、パフォーマンスを進める。
 ト書きは、「ビリー・ジョーの歌」の説明。手紙はビリー・ジョーが書き残したもの。午後8時から始まり、午前0時の死までを書き記したもの。
 ここは客観的に表現されるがそれでも、ビリー・ジョーの死ぬことの自由の主張と娘への思いが、簡潔だが逃げ場のない強さで迫ってくる。

 突然、激しく煩悶し始める娘。
 体中をバタつかせてのた打ち回り、激しく痙攣し、のけぞりエビ反りになり、どうしようもない苛立ちをかき消そうとする。
 さらに、石炭の山のなかからビール瓶を取り出してきて、それを自分の歯で空けて、それを自分のパンツの中に突っ込み、立ち小便の姿態で大きく動かしながら石炭に振り掛ける。
 石炭を投げつけて模型のレールが壊れる。もう一度石炭の中からビール瓶を取り出して、今度はカナリアに飲ませようとする。カナリアをかごから取り出して、ビール瓶で頭を叩いて死なす。そしてそのカナリアをビール瓶に立てる。

 さらに娘の煩悶は続く。
 ダンサーは上半身裸になって、体の露出しているところに石炭の粉を塗り始める。顔も上半身も真っ黒になって、その中で眼と口だけが動く。そんな自損自虐のなかで、手紙を読み歌を歌う。
 こうやって舞台を思い出しながら書いていても、涙が出てくる。何かに到達したいという強い思いが、強烈な表現を通して伝わってくる。何に到達したいのか。
 死ぬ自由に対する、死によって失う愛。その喪失感と哀しみ。直情的に具体的に真正面から、そこを執拗にダンサーの身体で迫って行く。

 死ぬ自由や生と死の垣根の低さを言いながら、引き起こすことの重さを描いて、実際はそれを反証している。
 死の哀しみが大きくなればなるほど、死ぬ自由の意味もまた大きくなっていく。それでもなおも突き進んで、死ぬ自由と死の哀しみはせめぎあい、そして互いが互いを呑みこむところまでいく。
 レトリックを排した生々しい表現を極限まで推し進めて、その先に象徴するものがパワフルに見えてくる。そんな舞台だ。

 アルテミス・スタヴリディは、のびやかだが引き締まった肢体で、ギリシア神話の女神を思わせる。
 その美しい肢体を、自ら激しくいたぶる。そのことで、ビリー・ジョーを感じて身体に取り込んで、その身体のありようを見ていると、ほとんど同化しているようにさえ感じてしまう。
 語りは説得力があり、歌は力強くて、カントリーミュージックの哀愁が骨太にただよう。うなってしまう。

 この舞台は伊丹ではきのうときょうで2ステージ。ほぼ満席だった。


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