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《2010.9月−18》

新しい表現試行の現場に立ち会う
【わたしたちは無傷な別人である (チェルフィッチュ )】

作・演出:岡田利規
24日(金) 19:05〜21:00 愛知芸術文化センター・小ホール 3000円


 チェルフィッチュの新作は、これまで獲得してきたものに加えて、さらに表現の幅を拡げていこうと志向する舞台だ。
 ノイジーな身体とは逆に、わかりやすい簡潔なテキストで、「ことば」の力をどこまで意識して引っぱりだすかという試行が興味深かった。

 幸せな男がいる。男には幸せな妻がいる。
 ふたりは近々、海辺の高層マンションに引っ越す。そんな妻のところに不幸な男が現れる(幻想)。妻は自分が幸せでいい理由がわからなくて不安になる。

 今回は、表現形式としての「代理表象」がポイント。
 作者は言う、ペットボトルを1本立てて「男がいます」と言うと、ペットボトルが「男」に見えて(真に受けて)しまうという“力”が「ことば」にはある。
 作者の関心はもっと広くて、「人はなぜ認識するのか」を、大理石の塊が人間に見えたり、キャンパスの上の絵の具が風景に見えるという人の認識力の探ろうとしている。
 今回の公演では、リアルに対象に迫って演技(代理表象)しなくても、「ことば」の“力”によって観る人の脳の中に像を結ばせられるのではないかという、そんな試みがなされている。

 だからこの舞台では、観客ひとりひとりが、自分がどうイメージできるかという実験台だといえる。
 実験台としては、外からの平易な「ことば」がどこまでイメージを喚起してくれるのか、自分の心の中を覗き込むような感じがある。
 テキストだけではない、動きによる表現も出し惜しみされる。
 例えば、男が先客とふたりバスを待っている。俳優がひとり走ってきて、待っているふたりと走り去る。これで男がバスに乗り込んだことは十分にわかる。そんなふうだ。

 2時間の舞台が、ほぼ30分ごとの4つのシーンに分けられる。
 シーン1は、近々引っ越す海辺の高層マンションの工事を見に来た男が、帰るまで。
 シーン2、いま住んでいるマンションにいる妻を訪ねてくる不幸せな男(の幻)と妻との会話。
 シーン3は、夫婦のマンションに妻の職場の後輩の女性が訪ねてくる、その様子。後輩の女性1人が、3人の女優によって演じられる。
 シーン4は、その夜の夫妻。妻は、シーン?を受けて、幸せでいていい理由がわからないという不安を夫に話す。夫は、それ(無傷な別人)でいいんだ、と妻に話す。

 ノイジーの対極にあるような間延びした身体は、なかなか受け容れがたい。
 短い簡潔なセリフをしゃべったあとの俳優は、かなり長い時間無言で、ゆったりと身体を動かして形らしきものを作る。その動きの大きさも速さも綿密に計算されているはずだ。
 だがしかし、それは空疎にしか見えない。心の落ち着き場所が見つからなくて、宙を漂っているようで少しいらだつ。こんなに少ない情報でどうしようというんだ、という気になってくる。
 だが、シーンが進んでいくにつれて不思議なことに、状況はゆっくりとと浮かび上がってくる。

 作者は「代理表象」について、極端に言えば「表象はどうでもいい」とさえ考える。
 作者は、「舞台の上で何が行われているのか」よりも、「観客の脳の中で何が行われているのか」のほうが重要と考えている。
 俳優は、役にどこまでも近づいても、役本人にはなれない。それが「代理表象」の限界で、そこを追及していくよりも別のアプローチで、役を観客にイメージさせることができるか。
 そのために観客に与える情報を制限して、観客が感じ考えイメージするための時間をたっぷりと与える。与えられる情報は、イメージしやすいための補助的なものが多い。
 しかし観終わると、全体としてのイメージはかなり明確になっていて、テーマの切実さも迫ってくる。観客は少ない情報からでも具体的にイメージすることができる、ということを感じさせられる。
 そこから、そのような観客の能力に期待した表現方法の可能性は、確かに存在しうるのではないか、という気になってくる。

 不幸の側から見ることが多い「幸せ」を、幸せの側から見て、幸せに理由は要らないよ、とそっとつぶやく。
 シーン2の、妻と不幸な男とのやりとりを通して、幸せの理由がないことに妻は不安になる。だからといってそれは不幸ではないし、幸せは不幸な人に関わることで確認するものでもない。
 不幸な男は「お金」ということばを口にする。これが大問題だが、逆にこれが満たされれば大部分の不幸の問題は解決されるともいえる。だから、この夫妻は幸せの条件は整っている。
 「お金」がないのに「夢」や「生きがい」があれば幸せ、というようなまやかしを認めない作者のリアルな視点が貫かれている。

 終演後、アフタートークが30分。
 対談相手がとんちんかんな質問ばかりするのであきれたが、そこをかいくぐって岡田利規が話してくれた話では、いろいろな表現方法を模索していることがわかって、作品理解の大きな助けになった。

 この舞台はあいちトリエンナーレ2010参加作品で、きょうから26日まで4ステージ。ほぼ満席だった。


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