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《2012.3月−4》

ここでしか通用しない表現が多すぎる
【夢十夜2012 (ことりっぷ劇場)】

作・演出:三浦としまる
17日(土) 18:00〜20:10 青年センター3F 500円


 内容も表現も陳腐でくどいだけで内発的なものが弱くて、古臭い演技で薄っぺら、という舞台だった。

 漱石の「夢十夜」に想を得ていて、10の夢のシーンが演じられる。ただ、その10の夢は連関していて、全体がそれなりにまとまった話になっている。
 原発事故で廃墟になった地域が鉄条網で住民ごと隔離され、日本のその他の地域は米・中・韓・露に分割統治される。鉄条網に中に隔離された人々と、外国の統治にレジスタンスする人々の話が並行して進み、ラストに結びつく。

 そのような構想は悪くないのに、なぜかいっこうにおもしろくない。
 全体の大きなストーリーが、それぞれの夢の切れ味を悪くしている。それぞれの夢が、夢らしい突飛な飛躍の驚きが薄れたうえに、ちゃんと落ちないのだ。発想が常識的に過ぎていて、わかりきったことをクドクドと説明するよけいなセリフも切れ味を弱めている。結果として、のっぺりとした悠長な脚本になってしまった。

 ほんとにこの舞台は、作る側だけが楽しんでいて、観る側への配慮がなさ過ぎる。
 脚本は刈り込みきれずにゴテゴテしている。俳優もまたゴテゴテしていなければ演技じゃないと思い込んでいて、我流のゴテゴテ演技を開陳する。どうやら、ゴテゴテ=存在感 と勘違いしているようだ。
 そのゴテゴテ垢を削ぎ落として磨き上げていくという仕事を、演出は放棄している。
 ほんとに、説明的なつまらない長セリフをダラダラとまくし立てられてはたまらない。モノマネダンスを得々と踊られるのもたまらない。下手な歌を本人だけ気持ちよく歌われるのもたまらない。仲間うちに向けた甘ったれ演技だ。

 作者の三浦としまるは東日本大震災前に、震災の痛みを想起させるような作品を書いた。その作品の強い内発性に比べると、この作品は思いが十分に深められることのないままに、義務感にかられて書いているように見える。
 価値観が変わるような激しい衝撃を受けた3.11から1年が経った。3.11の衝撃を反映したいろいろな表現がたくさん出てきている。
 この舞台は、福岡での上演としては3.11を意識した数少ない舞台のひとつだが、感受性のなさが露呈してしまっていた。深められていないし、文明史的な大きな視点もないから、震災後の状況が示す意味も浮かび上がってこない。

 この舞台はきょう2ステージ。満席だった。


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