昨年の10月に92歳で亡くなった佐賀にわかの筑紫美主子さんの追善公演「ありがとう筑紫さん!佐賀にわか再び」が佐賀であったので観に行った。佐賀にわか「親の意見」に、多いに笑った。
次のような構成だった。司会はサガテレビの内田信子さん。
○もう一度見てみたいあの場面
筑紫美主子さんの舞台の名場面集で、10本近い舞台からピックアップした映像をほぼ10分で見せる。そのほとんどが1990年代のもの。絶妙の間と変幻自在さ、客への反応が何ともおもしろい。純朴なおやじの役がみごとにはまっている。
○トークコーナー 筑紫美主子さんを偲んで
筑紫美主子さんゆかりの4人の方の話を15分ほど伺った。4人は、筑紫三馬さん(美主子さんの長男)、大塚清吾さん(松竹写真部に勤務されたことのある写真家で、筑紫美主子さんの写真集や伝記の著者)、糸山義則さんと田中さん(筑紫美主子さんが九州大谷短大で踊りを教えられていたときの教え子。糸山さんはこの舞台の舞台監督)。
三馬さんは、美主子さんがお客様に生かされていると感謝を忘れなかったことや、朝に稽古して昼に憶えて夜に演じるという生活を毎日続けていたことを話された。もともと“さなぼり”の素朴な芸から出発しているので、“大づかみで癒す”ことが芸の基本だったという。
大塚さんは、美主子さんが子どものころ身につけた京舞の素養のおかげでドタバタをやっても成り立つこと、その舞台はまさに菩薩行だったことを話された。
○朗読 筑紫美主子さんの人生を振り返る
市原悦子さんによる、筑紫美主子さんの自伝の短く再構成したものの朗読で、写真がスクリーンに映し出される。
1921年(大正10年)にロシア人の父と日本人の母の間に北海道で生まれ、佐賀の叔父の養女となった。混血児としての苦労も多かったし家庭的にも辛酸を舐めた。4歳から8歳まで京舞を習ったが、あとはすべて我流だという。それでも踊りを教えたりしていた。18歳のとき役者だった20歳年上の夫と知り合い結婚した。
戦後、夫を興行元に据えて小さな一座から出発し、いちおうの筋書きはあるが勝手なセリフで笑わせ、客席とのかけあいで盛り上げる佐賀にわかの原点を修得。1952年には2000人収容の佐賀劇場での公演を成功させるまでになった。
1970年に夫が亡くなり一座は壊滅状態になるがそこから再生。テレビや映画のドキュメンタリー番組で取り上げられるようになった。そして1972年に浅草の常盤座での公演を成功させ、エノケン、大宮デンスケ、森繁久弥、浅香美津代、三木のり平らと交流した。
1974年、喘息の悪化により療養を兼ねて福岡県二丈町の玄海温泉センターの専属になり19年間続ける。その後も2000年くらいまでは活動を続けた。
そんな波乱万丈の人生を市原悦子さんは40分の朗読で聴かせる。まわりから嗚咽が洩れていた。
筑紫美主子さんについては、関連書籍を読んだりドキュメンタリー映像を見たことはあったが、残念なことに生の舞台を観ていない。この公演を観て筑紫美主子さんのおもしろさがわかってよかった。