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《2014.8月−9》

見ているだけで、ワクワク
【アンドロイド版三人姉妹 (青年団+大阪大学ロボット演劇プロジェクト)】

原作:アントン・チェーホフ 作・演出:平田オリザ アンドロイド・ロボット開発:石黒浩
21日(木) 13:50〜15:45 熊本県立劇場演劇ホール 特設ステージ(小劇場形式) 3,240円


 演技するアンドロイドとロボットが出演して人間と共演する舞台は、見ているだけでワクワクした。

 かつては大規模なロボット工場があった日本の地方都市。いま町は衰退して残っているのは小さな研究所だけ。高名なロボット研究者であった父親の死後もこの町に残って生活している娘たちとその弟。その家で、シンガポールに赴任する、父親の弟子であった研究者の送別会が開かれる。

 長女と三女と長男が暮らす家の居間。中央に低いテーブルとソファチェアとスツールが2個。上手に高い飾り書棚がL字型に置かれ、その手前に2階への階段がある。奥は木製のブラインドが閉まった窓。その窓のそばの高さ1メートルほどのところに、ロボット操作のためのセンサーが2個取り付けられているが、言われなければ気がつかない。
 開幕時間10分ほど前から大学院生である長男が、ソファチェアに寝そべって写真集のようなものを読んでいる。そこに執事(料理・掃除など家事全般をこなす)役のロボビーR3が“何か用事がないか”訊きにくる。ロボビーR3は、人とロボットのコミュニケーション研究のために開発された等身大(といっても背は低い)のロボットプラットフォームで、380万円で市販されている。緑と白に塗り分けられ、小さな緑のリュックを背負っていて、実にかわいい。このロボットが、演劇のなかに執事役として登場してビックリ、セリフを発してビックリ。映像で見たときは感じなかったが、生の舞台に“役”として登場したときの衝撃は大きい。この執事は元々ロボットであり、ここではロボット役をロボットが演じるという形になる。
 そこから数分間は、舞台には何も起こらない。やっと長女が帰ってくる。3年前に亡くなった父親の遺言で、この町で買うお墓を次女夫婦とともに見に行っていたのだ。長女が帰ってきてやっと本格的に芝居が始まる。

 長女と長男の間で、長男の留学の話、町で火事があって古いロボット工場が焼けてしまった話、東京にいまあるのお墓の話などが語られる。執事が送別会の料理の希望を訊きに来て、買い物に出かける。
 そのあと三女が登場する。三女は11年前に亡くなっていて、その精神というか魂をジェミノイドに移し替えて、いまはジェミノイドとして生きている。このジェミノイドの三女を演じるのがジェミノイドFという若い女性型のアンドロイドだ。ジェミノイドFは、ATR石黒浩特別研究所が開発したアンドロイドで、モデルはロシア人のクォーターらしい。それまで46あったアクチュエイターを12まで削減してコストダウンしながらより豊かで人間らしい表情の実現を目指したもので、1,000万円くらいするようだ。歩けないからリモートコントロールの電動車イスに乗って登場する。ロボット側ディレクターの大阪大学の力石武信さんは、「電動車イスもロボットなので、3つのロボットを操作しなければならないので大変」とアフタートークで話されていた。

 アンドロイドが出てくると、アンドロイドばかりを見てしまう。ジェミノイドFはアンドロイド演劇「さようなら」では詩を読み続けた。今回はジェミノイドになった三女を演じ、人間の俳優ともからむ。配役表には、「アンドロイドの声・動き・・井上三奈子」とあるがその役割がわからない。声は録音そのままなのか合成なのかとか、動きをどうシュミレートしているのかとか、アフタートークで訊けばよかった。
 ジェミノイドFは、首は前後左右に動く。しゃべるとき口を動かす。瞬きはするが瞳は動かない。顔の筋肉はほとんど動かないから、表情には乏しい。アクチュエイターが12しかないから、それはやむを得ないのだろう。可愛さよりも若干の不気味さが先に立つのは、ジェミノイドFが「不気味の谷」に近づいているからということだろうか。
 アンドロイドは空気が読めないうえにウソがつけない。ジェミノイドの三女は、みんな知ってはいるが口には出さない次女の夫の浮気のことなどを、みなの前で堂々と話してまわりをあわてさせる。その空気が読めない感と若干の不気味さとは、どこか繋がっている。父親の弟子だった教授夫妻とシンガポールに赴任する研究者との話のなかでは、シンガポールに赴任する研究者と三女や教授の若い妻との関係が匂わされたりするが、そんな話のなかでジェミノイドの三女の本音トークはときに炸裂する。

 そんなとき、ジェミノイドの三女の後ろに、井上三奈子演じるホンモノの三女が登場する。ウォー!ショックだ。並んだ2人の三女を見て、何がどうなのか、もうワケわかんなくなる。三女のひきこもりを隠すために死んだことにして、父親が作っていたジェミノイドに魂をコピーしたことが明かされても、そこはなかなかすぐには納得できない。ここは、同じ格好をしたジェミノイドとホンモノとの三女が並んでいることに呆然としながら、そのあとジェミノイドの自立などの話を、少しばかりどうでもいい気持ちで聞くことになる。
 教授のきょう来たほんとうの目的が、そろそろ期限が切れ始める父親の特許の管理を、親切心でやってあげるように見せかけながら、実は自分の利益を図っていることがわかってくる。そんなとき突然、ジェミノイドの三女が小学6年生のときに教授に無理やりキスされた話をする。否定する教授。しかし、それがトラウマになったことを三女が言い始めると教授はキレて帰っていく。みんなは送別会のテーブルに移動していく。

 原作の「三人姉妹」を大きく改変してはいるが、始まったときと終ったときで主要人物の状況がほとんど変わらないこと、そのために漂うたいくつ感(平田オリザはリーフレットの「上演によせて」で「巨大な寂しさ」と言っている)は、原作と雰囲気がとても近い。ただ、原作で姉妹が“モスクワ”にあこがれているが、ここでの姉妹は“東京”はどうでもいいところまできている。
 場面転換どころか暗転もないという一幕の舞台で、登場人物たちの実時間を切り取っている。そのために原作で唯一と言っていいほど変わっていく長男の嫁は、プロポーズまでしか描かれない。長男をパニック障害でヒステリックにしてその性格を強調し、次女の夫の調子よさに隠れた狡猾さや、教授のとりすましたなかに隠れた腹黒さなど、短い会話のなかで人物をキッチリと描き出している。

 この舞台は映像では見ていたが、生で観ると、普通の舞台以上に映像で見るのと生で観るのとの落差が大きいことに気づく。ロボットやアンドロイドは大雑把ではなくて非常に繊細で、特に人とのやりとりの微妙さは生でないと伝わらない。
 非常に活発だったアフタートークの質疑応答で、ロボットの身体性について質問しようとして、なかなか言葉で表現できなくて苦心されていた方がおられた。2011年に初めて、アンドロイド演劇「さようなら」・ロボット演劇「働く私」を観たとき、「何だ、リモコンか」と失望したわたしには、質問者の気持ちはよくわかる。ロボットはもっと人間に近いところまで進化していると思いたいのだ。しかし、平田オリザが言うように「自分が生きている間には人間に近いロボットなどできない」だろう。だからこそ、この公演のようなロボットとのコミュニケーションの方法の追究は意味を持つのだろうが、それはそれとして、人とロボットとのコミュニケーションを見るのはそれだけでワクワクする。もちろんそれは、この舞台のように周到に作られていればこそだろうが。
 この舞台は熊本ではきのうときょうで2ステージ。満席だった。


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