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《2014.11月−1》

語り尽くさずには済まさないという気迫
【それからの遠い国 (劇団太陽族)】

作・演出:岩崎正裕
2日(日)14:05〜16:00 北九州芸術劇場 小劇場 キタコレ(6演目)セット券13,500円


 語り尽くさずには済まさないという気迫にあふれている。リアルな生活感あふれる言葉とナマクラで抽象的な言辞と名作戯曲からの引用を捻り合わせ、あがきながら生きていく人々の生き様に迫って、どっしりとした存在感のある舞台としている。

 16年前にオウムを脱退した義正もすでに40代だが未だ独身。父から受け継いだ工務店を潰してしまって今はリサイクルショップをしている。独身の妹2人がそこに同居している。夫の転勤に伴って現金が必要になった姉が、リサイクルショップの土地を売って分配するよう要求してくる。

 「ここからは遠い国」(1996年初演)の16年後を描く「ここからは遠い国」と“対”をなす作品だ。「ここからは遠い国」は、2002年に西鉄ホールで上演されたものを観ている。「それからの遠い国」を観るにあたって1997年に上演されたものの映像を見なおした。「それからの遠い国」は、主要人物も作品の構成も「ここからは遠い国」とほとんど同じにして、16年前と対比して義正のまわりの今を描いていく。 
 「ここからは遠い国」「それからの遠い国」とも、ラスト近くに“暗転シーン”が置かれている。「ここからは遠い国」の“暗転シーン”では、ほとんど壊滅状態のオウムに戻るか迷っていた義正が、オウムに未練を残しながらもオウムに戻ることを断念する。「それからの遠い国」の“暗転シーン”では、それまで未練があったオウムに完全に見切りをつける。2つの芝居ともに、そこに至る義正の体験と思いをしつこく描き出していく。

 舞台のど真ん中にドーンと軽トラックが置かれている。その後方のガラクタの塔はまわりを覆うパイプ類がたくさんの蛇がからんでいるように見える。オープニングの福島のシーンを除けば、あとは全部リサイクルショップの車庫内の軽トラックのまわりで展開される。
 義正、2人の妹、姉とその家族(夫と息子)、義正のいとこ(女)、末妹の芝居の仲間(男女2人)、整体師の女、父(幽霊) という登場人物。「ここからは遠い国」でオウムに戻った男の影がちらつく。遺産分配の生臭い話のなかでのたうつ義正の心情を、「テンペスト」と「ワーニャ伯父さん」のセリフに絡めて強調したりなだめたり抽象化したりする。

 思いをストレートにぶつける戯曲だ。意図的に挿まれる棒球も含めて、直球をドカドカと絶え間なく投げ込まれている印象がある。
 生活に根ざした言葉もあるが、どっちかといえば思いを抽象的な言葉に託す。言わずもがなの一般論的な物言いも人物の個性を表すために使われる。奇矯な人物はいないのでその物言いは分るけれども、抽象的な物言いを全部理解して名作戯曲からの引用とも絡めて 受け止めるのはかなりたいへんだ。
 そんな抽象的な議論の白眉が、義正と若いインテリ演劇人・川上との会話だ。川上は今の若者の70%が現状に満足していることを言い、何で現状を変える必要があるのかと義正に迫る。義正が魔法の杖を折るラストは、義正もこの川上の議論に影響を受けたように見える。
 「ここからは遠い国」が書かれた数年前まで、世の中の90%の人は自分が中流だと考えていた。オウムはそんな時代に活動を大きく広げている。若者の70%が現状に満足している状況がいいことなのか? 残りの30%はどうなんだ? 問題は認識されずにただ沈潜しただけではないのか? 状況は悪くなっているのに、義正は杖を折っていいのか? 等々、いろいろ考えさせられることになる。

 整体師はオウムの菊池直子がモデルで、このごろのオウムの状況を取り込んでいる。“カゴのウサギ”とか“弁当”とか、「ここからは遠い国」と共通する小物の使い方も効果的だ。
 父(幽霊)役の南勝は1941年生まれの72歳。この人と、義正役の森本研典がいるから“対”が完成している。この16年は早かった。2028年に「ここまでの遠い国」とか作ってほしいけど、わたしはたぶん観られまい。
 この舞台は北九州ではきょうとあすで3ステージ。少し空席があった。


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