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《2002年11月24日》

ピストルと幽霊 おぼえがき

〜福岡演劇の劇作を考える〜


 2001年4月に2年ぶりに福岡に戻って1年半と少しが経った。この間、福岡の演劇をあまり好き嫌いを言わずになるべく広く観るように心がけてきた。
 その結果、福岡演劇の大体の傾向も私なりにつかめかけてきた。そこで、劇作を中心に福岡演劇の印象をまとめた「ピストルと幽霊」という批評を2002年10月発行の「N.T.R.」第6号に投稿した。
 そこでは具体的な固有名詞は載せていなかったので、そのあたりを中心にここで少し補完しておきたい。

○福岡の演劇はいまどうなんだろう

 福岡では劇団の数も多く、リアリズム系、中間演劇志向、ミュージカル専門、サイケ調、反リアリズム、タレント養成所系、児童劇団など幅広い。学生演劇もさかんだ。
 公演も、中規模の西鉄ホール、NTT夢天神ホール などでは毎週というわけにはいかないが、小規模のぽんプラザホール、シアターポケット などではほとんど毎週公演が持たれている。
 その中でいろいろの動きが出てきている。西鉄ホール公演を成功させた劇団あんみつ姫は別格としても、SAKURA前戦は一人勝ちの ギンギラ太陽'S と肩を並べるほどに観客数を増やしている。

○福岡の劇作にはどんな特徴があるのだろう

 福岡の演劇、特に劇作の特徴を考えてみる。
 福岡の若手劇団の公演では、オリジナル作品が多いのは評価できる。やりたい芝居を自分たちで初めから作っていこうという姿勢はいいし、そのために自ら脚本を書く人は多いから、かなりの数の劇作家がいるということになる。
 若手劇団の公演はそれぞれに個性があってそれなりには面白いが、大きな満足を覚える公演は非常に少なくなんとも中途半端というのが多い。ドラマとして演出者や俳優を触発し、観客をほんとうに感動させる作品はほとんどない。
 そのあたりの経緯を少しさかのぼったところから見ていきたい。

 福岡現代劇場や生活舞台というリアリズム系の劇団では既存戯曲の上演が中心で、オリジナルはほとんどなかった。本格的なオリジナル戯曲が出てきたのは、テアトルハカタの石山浩一郎や夢工場の石川蛍あたりからだろう。
 その後、劇団主宰者が自ら作・演出も手がけるという小劇場スタイルが定着してきたのは、浦辻純子や高橋徹郎を経て、K2T3の後藤香や風三等星の広瀬健太郎あたりからだろうか。あなピグモ捕獲団の福永郁央やクロックアップサイリックスの川原武浩などがこれに続き、現在の若手劇団の多くがその形態となっている。
 いま旺盛な活動で注目されるのは、こすぎきょうへい、日下部信、タブチヒロユキ、幸田真洋、いけうちしん、大田美穂、榎本史郎 などであり、他に俳優養成所系として、秋久純友、ミュージカル劇団で徳満亮一、テント芝居系で南新地がいる。ほかに俳優ではあるが脚本も書くという人では、オカモトヒロミツ、山下晶などがいる。

○福岡の演劇にはなぜいい戯曲が少ないのだろう

 その理由がなぜかというのは、ピストルと幽霊に象徴されるようなところに逃げ込んでいること、それは福岡の演劇が日本の演劇状況からまったく取り残されているためであるが、詳細は「ピストルと幽霊」本編を読んでいただきたい。

○福岡の劇作の特徴は作品にどう表れているのだろう

 「ピストル」と「幽霊」が頻出するような戯曲の構造と質はどのようなものだろうか。何が喰い足りないのだろうか。
 深い思いからは、ストーリーと多くのことばが溢れ出す。それが構成力と表現力の源泉となる。
 まず深い思いがあることが前提ではあるが、でも逃げ道があるととことん考えないためストーリーもことばも溢れ出すまでに至らない。そのため、ドラマの底が浅くコンテンツ不足で舌足らずな何とも淡白な作品になってしまう。

 構成力については、状況設定やストーリーにいかにボリュームを持たせて納得させることができるかだが、福岡の演劇では単純な状況設定と単調なストーリーが圧倒的に多く、納得できるレベルに達しているものは少ない。いちばんの問題は、ドラマの骨格である課題の克服(横内謙介氏いうところの「通過儀礼」)がきちんと描かれていないことだ。ましてや、何人もの課題とその克服が交錯するような作品は現れっこない。

 表現力については、言葉としていかに訴えかける力があるかだが、ここでも突き詰められていないし洗練されておらずことばの魅力で惹きつけるまでには至らない。生煮えでなまくらなことばをそのまま主人公にしゃべらせて平気だし、単純すぎたりしつこかったりもいっこうにおかまいなしである。

 カタルシス拒否系の戯曲にしろ構成力と表現力が要ることに変わりはないのに、そのあたりをあいまいにしておくのがかっこいいと思っている節もみうけられるが、とんでもない間違いである。

 そのように構成力も表現力も弱いままで、テーマへの深い思いが表されることもないまま上演される作品が多いため、普通の人の普通の思いが楽しめるところまで描かれることは少ない。その結果一般観客からは相手にされず、観るのは関係者と仲間うちだけということになる。
 現状は、作る側が楽しむだけの芝居であり見せるための芝居ではないものが多い。そこから脱却して、まず一般客を取り込めるレベルをめざす必要がある。

○福岡の劇作はどう進んでいけばいいのだろう

 以上述べてきたような構造を理解すれば、進むべき道は見えてくる。
 現状を改善するためには、そのブラッシュアップではなくてその否定から出発したほうが早いというレベルだ。構造改革しかないのだが、既成の劇作家にそれができないのであれば、現状を否定し乗り越えるような新しい劇作家の登場を待つしかないのだろうか。


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