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《2001.4月−2》

老舗劇団のレベルを嘆く
【楽屋 (テアトルハカタ)】

(清水邦夫って知ってる?)作・演出:高田豊三 (楽屋)作:清水邦夫 演出:野口ひろとし
22日(日)17:00 ぽんプラザホール プレゼントチケット


 テアトルハカタの公演を久しぶりに見た。古門戸町の劇場で初めてテアトルハカタの芝居を観てから10数年経っているが、そのころの質の高さに比べ、その後は公演ではその多くが期待を裏切られ続けている。試行錯誤を重ねているのはわかるが、どこに行こうとしているのがわからない。
 この頃はショーマンシップやドリーム☆カンパニーなどのテアトルハカタ出身の俳優の主宰する劇団の活躍の方がめざましく、テアトルハカタの中間演劇的な志向はそこに受け継がれているとは思うが、私にはテアトルハカタが本来めざしてきたきっちりとした芝居で福岡の演劇界を引っぱっていた古門戸のころの質の高さがなつかしい。オリジナル作品が少ないのも不満だ。

 清水邦夫のこの作品は、社会現象にまでなった70年前後の怒涛のような傑作群のあとに書かれた、作者の変換点にある作品である。それについては、「それまでの作品が観客には見えないところでなにものかを相手に必死に切り結んでいたのが、この作品では女優の亡霊たちという見えないはずのものを観客に見せたためか、見えないところでの殺気は消えていた」(小田島雄志「舞台人スナップショット」)という指摘が当を得ている。

 通常のリアリズム劇を超えたところがある清水の作品にテアトルハカタが挑むことは、快哉には違いない。いままでの井上ひさしなどの上演とは、演技の質も演出も大きく変えなければならないだろうとは容易に想像できる。それができればすばらしいと期待した。
 が、まず、パンフ記載の演出家が書いた上演の動機が浪花節なのが気になった。さらに「清水邦夫って知ってる?」という余計と思えるものが付いていて、見る前から不安になった。そして残念なことに不安は的中した。

 「清水邦夫って知ってる?」は、もともと説明など要らないのに何かの理由で無理やり付けられているとしか思えないが、蛇足よりももっと悪い。清水邦夫の作品名を網羅的に叫ぶだけで、作者についても作品についても何も言っておらず、作品と呼べるようなレベルではない。
 その何の内容もないということが、この企画に取り組む劇団のレベルをさらけだすという、マイナスの効用しかない。このようなものを舞台にかけて、啓蒙してやるとばかり観客に押しつけてくるのは、観客をないがしろにし、この公演の品位を落とすことにもなった。表現どころか解説にもなっていないものを、腹立たしく見つめ終るのを待つよりなく、そこにいることさえ恥ずかしく苦痛だった。このような観客への態度については、劇団の猛省を促したい。

 「楽屋」については、演出も演技も整理がまったくできておらず、夾雑物が多すぎて重すぎてテーマが鮮明に浮かび上がらないということになった。
 演出については、交錯している眼に見えるものと見えないものを、平板的に、物語的にしか捉えきれず表しきれていないのが致命的だ。そのために、現在舞台に出ている女優Cの恍惚と不安と、それに対応する亡霊である女優A、女優Bの舞台への思いがくっきりと対比されてこない。さらに、女優Dが見えない世界へ入っていくことがわからなくなってしまった。
 重層的にすればわかりやすくなると同時に深みも出てくるはずだ。こんなことは普通の演出家なら難なくこなすはずだから、専門の演出家が演出すべきであると思う。

 演出の致命的な欠陥による混乱は当然、俳優の演技に大きく影響している。例をあげると、戦前の女優Aと戦後の女優Bとのやりとりなど、動きもしゃべりも書かれたことそのままでメリハリがなく、演技に無駄が多すぎてどぎついばかりで、表現すべきものがぼやけてしまっている。
 それにしても、俳優は演出に対峙して自分の頭で考えないのだろうか、演出家ととことん議論しないのだろうか、清水邦夫作品でそれをやることは、テアトルハカタの力演パターンの演技を克服するためのせっかくのチャンスなのに、と思ってしまう。
 他にもいろいろ不満はあるが、衣装のセンスの悪さはなんとかならないのかと思ってしまう。

 以上のように「楽屋」は演目選定のミスの面もあるが失敗作だと考える。しかし、テアトルハカタの原点である社会性も娯楽性もあるオリジナルをきっちりとした演出と演技で舞台に乗せるという作品のほかに、可能性を広げる作品にも果敢に挑戦してほしいとは思う。


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